遠く太平洋の南の島…
パラオ。幾つもの小さな諸島の国。
この国の国旗を知っている方はそれほど多くはないと思います。
淡い青に黄色い円。形はどこかの国とそっくりです。
16世紀頃より、スペイン、ポルトガル、イギリスがやってきて1885年にスペインの植民地となりました。欧州より天然痘が持ち込まれ、またパラオの現地人に対する搾取が行われた結果、パラオの人口は90%程度減少されました。
1899年にスペインからドイツへパラオは売却されドイツの植民地となります。ドイツはココナッツ、タピオカ栽培、鉱石採掘などを行いましたが、他の植民地と同様に、道路や水道の整備や現地人への教育はほとんど行いませんでした。
1919年、第一次大戦後の戦後条約でパラオは日本の統治となります。
その時代から太平洋戦争まで、日本はこの地にたくさんの移民を送り、学校や医療施設、農業工業産業を築きました。教育や文化についても現地人と日本移民を差別することなく平等に接していたそうです。
現在のパラオの学校で使われている国定の歴史教科書では、「日の丸の旗のもとに」とタイトルがつけられ、その統治について詳しく述べられています。
日本軍はパラオ諸島の端、ペリリュー島に進駐し、ここに陣地が作られました。ペリリューの人は日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたといいます。
太平洋戦争が始まり、パラオにアメリカ軍がいつ上陸してもおかしくない状況になりました。現地の人達は、日本の守備隊長を訪れて「自分達も一緒に戦わせてほしい」と伝えました。それを聞くなり、隊長は激昂して「帝国軍人が現地人と一緒に戦えるか」と叫んだそうです。
日本人は仲間だと思っていたのに、見せかけだけだったのかと、裏切られた想いで涙したといいます。
ペリリューの人達は船で強制的にパラオ本島へ送られました、去るときに日本兵は誰も見送りに来ない…悲しい乗船。
でも、船が岸を離れた瞬間…たくさんの日本兵が浜へ走り出て、一緒に歌った歌で手を振りながら見送ったそうです。
あの言葉は、陣地があるために標的になるペリリューの人達を巻き込まないため、救うためだったと船上で悟ります。
圧倒的な戦力差と制空権、制海権保持しているため、アメリカはペリリュー制圧を3日と想定していたそうですが、猛烈な爆撃の中、日本は73日間も耐え抜き玉砕の末、全員戦死しました。
最後の電文は「サクラ、サクラ…」
戦いの後、帰島した彼らは日本兵の遺体を見て泣きました。
島の人達はこぞって共に過ごした日本兵の遺体を手厚く弔い、現在も日本の人達がいつ来てもいいように、墓地の清掃にも心掛けてくれています。
アメリカ統治に変わり、日本の統治が現地に深く根付いていることに気づいたアメリカは、日本と現地の人達が築いたものを破壊したり、反日的な教育をしても、パラオの年長者が「そんな話しはない」と否定したため、疑わしい史実はパラオに浸透しなかった。
ペリリュー島には、こんな慰霊碑があります。
「この島を訪れる諸国の旅人よ…あなたが日本の国を通ることがあれば伝えてほしい…この島を命をかけて守った日本軍守備隊の勇気と祖国を想う心魂を。」
日本に敬愛を表し、日本の国旗が太陽ならば、パラオの国旗は青い洋上の月。
パラオを訪れる日本人に対し、とても温かく迎えてくれます。
僕は日本人で嬉しい。国旗や先人が誇らしい。ただ素直に大好き。
愛国心。この言葉に自動的に後ろめたい気持ちになる雰囲気を知っています。そんな教育と空気があったから。
愛国心=軍国右翼みたいなイメージがあります。見かけるうるさい凱旋右翼みたいなものは、本来の愛国心のイメージを曲げる工作であり、所属している人達は日本人ではなく在日朝鮮人の方々です。
戦争そのものを正当化したり、過去の日本を美化したりする気持ちではありません。ただ、そうあった真実とその後、植民地支配下にあった東南アジアの独立(植民地支配から全て独立しました)など。日本の果たした役割を、きちんと意識してほしい。ねじ曲げられた先勝国独善の歴史から真実の歴史を見つめてほしい。
靖国を、戦犯合祀と言いがかりをつける国が若干ありますが、ここに眠るのは、ペリリュー島で桜花のように散った先人達。靖国で会おうという言葉は、遠い果てで命懸けで祖国を守った方々と再会する言葉。遠い海の向こうで散った先人たちとは、靖国でしか会えないのです。今が平和過ぎて申し訳ないくらい感謝しています。
ちなみに、誇り高く真に強い日本と戦ったため、連合国は占領後の日本に過酷な扱いをできなかったともいいます。
僕は戦後数十年、日本の安全保障を守ったのはアメリカであったと理解していますが、日本そのものを守ったのは靖国に眠る英霊だということを腹で受け継いでいます。
遠く南の美しい島、パラオは、そんな先人達と僕らを繋いでくれる国だと知りました。