2006年。韓国。
僕は再び韓国で始動し始めた。
結果、ホンさんの会社で企画を進展させる事になった。
僕が選んだ企画は「マイロストストーリー」だった。これこそ再出発にふさわしい内容
だと思った。幼い頃に生き別れた姉妹が、お互いの生存を信じて探し続けるが、そこに
不幸な障害が付いて回る、という内容。アンさんも自分の仕事の都合をつけながら、
ちょくちょく会社へ来ては書類の作成や投資家への打ち合わせなどを手伝ってくれた。
住む場所は龍おじさんの下宿がいっぱいだったので、すぐ近くの下宿を紹介された。
僕は完全に香港のときのような生活を手に入れたのだ。毎日が少しずつだが、進展し
はじめたように思えた。日本に何度かいき、投資家といわれる人たちとも会うようになった。
そこで僕が知ったのは、日本の人たちは内容よりも俳優優先だという。韓国は内容と資金
優先に考えているという事。打ち合わせがやがて停滞し始めた。日本の人は、ペ・ヨンジュ
ンやイ・ビョンホンが出るならば、すぐにでも資金は出せるという。こちらはそんな大スター
など始めから考えておらず、この内容に共感してもらえる俳優、役に合う俳優を考えていた
。もちろん、ごく一部を除いては、日本では知られていない俳優だ。しかも女優。日本の
投資家は次第に、誰かがまず出してくれるなら、うちも出すと言う結論に変わっていった。
韓国に帰るたびに、僕らは韓国で俳優を捕まえるための苦労を痛感しているので、とりあ
えず企画を動かすための資金を集めないとならない。それでシナリオの検討稿を完成させて、
俳優に見せようとなった。候補でなく、正式な俳優を企画書に載せるなら、日本の投資家も
反応が変わるだろう。韓国では、まず企画とシナリオを完成させるための資金投資が入る。
そこから配給会社が入り、そこから投資がさらに入る。制作会社と配給会社が全体予算の
半分を投資できた段階で、俳優を交渉して契約を交わす。そして残りの予算をファンドなり、
投資家なりスポンサーなりにお願いする。その流れをある種無視した、シナリオを開発して、
乗る俳優を探す、なんてことは無理に近いのではなかろうか。現にホンさんの動きが急に鈍く
なった。自分の部屋に篭り、必死にノートに何か書いている。かと思うと、急に何かを大声で歌いだしたりした。・・・これはいっぱいいっぱいなんだな、きっと。アンさんも自分の仕事がいそがしくなり、なかなか起動できなくなった。僕もある程度は韓国語を理解し始めていたし、生活に
は困らなくなった。ホンさんとはコミュニケーションも取れているし、まぁ、いいかとなった。この
ホンさんの不思議な状況に、きっと周りの連中を不安にさせたのだろう。助っ人が登場した。
一人は「四月の雪」のプロデューサーをしていたキムさん、一人はアメリカで「スタートレック」
のプロデューサーをしていたチェさん、そしてホンさんの会社の会長さんの知り合いで、教会の仕事や貿易をしている、ジョンさん。彼らがこのホンさんの会社に出入りするようになった。僕
らはホンさんがすごく悩んでいることを、悲しく思い、なんとか励ましながら、企画を進展させ
ようとなった。キムさんは、自分が、ソン・イェジンさんを交渉できるといい、チェさんは制作の
手助けができるといい、ジョンさんは投資家を連れて来られるという。あとはこの会社のリー
ダーであるホンさんを励ませばいいのだ。
だが、ある時、僕はホンさんが一人で何かをノートに書いているのを、そっと背後から覗いて
見た。するとホンさんはノートに真剣に、ハートマークをいくつも描いていた。僕は不可思議
だった。ノートのどの頁を見ても、ハートマークだけが描かれていた。僕に気が付いたホン
さんは、ミュージカル映画みたいなノリで急に歌いだした。僕の顔を見て。なぜ?
ホンさんを見たのはそれが最後だった。
なぜなら彼は行方不明になったからだ。
ホンさんが行方不明になり、僕たちは彼の会社から出る事になった。いなくなった理由は
だれも分からなかった。だが、なんだか不穏な空気が周りからは流れてきていた。僕らの
プロジェクトは、チェさんの会社で引き続き行う事となった。タイトルを変える事を考え、僕は
さらにシナリオを治す事を考えた。
この年、僕は下宿のおじさん、おばさん、そして下宿にいる女の子、男の子たちと年末を
過ごした。僕はなんだか家族と過ごした年の暮れを思い出していた。下宿のテラスでみん
なで食事をした。
遠くで花火が上がった。
僕はおじさんのビデオカメラを借りて、その様子を撮影した。その映像を思い返すたび、
みんなが僕に向かって、心に残る映画を作ってくれと激励する様が写っている。その日の夜、
僕は遅くまでおじさんと飲んだ。
「赤松君、君はもう一人じゃないよな」
「急になんです?」
「どの国に行っても、君には仲間がいたんだよ。彼らを裏切ってはいけないよ」
「そうですね」と、僕はグラスに残った酒を飲み干した。おじさんはまたなみなみと酒を注いで
くれた。
「いい映画を作れよ。ここまできたらやるしかないだろ」と、おじさん。
僕はさらにその酒を飲み干して、意識が少しずつ遠のいていくのを感じた。
「やるしかないです」
それが2006年、僕の最後の言葉だった。
2007年。韓国。
チェさんの会社に関わるようになると、また色々な人が関わりだした。
僕は別の制作会社の社長から、ある女性を紹介された。なんでも翻訳と通訳の仕事で応募
してきた人らしい。その人を使う仕事がなくなったのだが、優秀なのでその資質を生かして
あげたいと、僕のアシスタントにどうか、となったそうだ。
彼女はウンジュさんといい、見た目はサザエさんみたいだった。優しい喋り方で、一見する
とこの手の仕事は未経験者に見えるのだが、なんだか僕は騙されてはいけないぞと、彼女は
かなり仕事をしていると考えて接した。その考えは間違っていなかった。ウンジュさんは〇洋一監督の映画の手伝いをしていたそうで、映画の製作のすさまじさや、しんどさはよくわかっているらしかった。
「監督は子供です」
ウンジュさんは僕に話した。
「崔監督の子供ぶりと赤松監督の子供ぶりは違います」
ミョンドンのカフェで、彼女は笑いながら教えてくれた。
「崔監督は映画では子供です。映画作りに関しては。駄々をこねたり、急に難しいことを
言ったり、作品つくりには童心に帰っているといいますか・・・。ですが、普段は紳士で常識人
です。でも赤松監督はずっと子供だからちゃんと見ていないと危なっかしいですね」
それから例のジョンさんも仲間に加わった。
彼はなにかと韓国での生活の難しい所を教えてくれて、また、何かあれば駆けつけてくれる
ようになった。彼と下宿の龍おじさん、おばさんがいたから、僕は韓国の生活が築けたのだ
と思う。本当に日本では経験したことのない、ごく普通の、エンターテイメントとは関係のない
人との交わりで、僕は少しずつ和んでいった。
それを蹴散らすような出来事が起きた。今度は危険な事や、おかしな事ではなく、僕の心の
奥底に眠る、本来の目的を呼び覚ます事。
「短編、撮ってみようよ」
僕が「マイロストストーリー」のシナリオ打ち合わせを、シナリオ作家と打ち合わせをしていると、チェさんが言ってきた。
「短編?そんな動きがありますか?」
僕は興味が無かった訳ではなかったが、自分の映画の方が重要だった。それでも本編に行く
前に、一度勝負してみたら?とチェさんは言った。少し考えてみます、とその場は答えておいた。
続く