香港に戻ってきて、僕はヤンさんの会社にできるだけ顔を出すようにした。彼女は映画の仕事に懲りることなく、関係者にアポを取り続けていた。知り合いが増えれば増えるほど、映画が難しく思えると、彼女は零した。
なんだか僕はその頃新しい映画の企画を考える気力もなく、ただじっと日々をやりくりする事しか考えていなかった。何かを生み出すのは、その人の人間力ならば、僕にはその人間力が欠けてしまっていた。思い出すのは、楽しかった頃の出来事。青い空を見ながら、ふとその映像を思い出すたびに笑顔が毀れた。だが、ただそれだけだった。あしたのジョーが、力石徹が死んで人の顔を殴れなくなった時のような、気力のなさだった。ヤンさんは顔をあわす度、日々の大変さを訴えた。しかし充実しているように見えた。愚痴りながらもまた仕事へ出かけていくヤンさんを見ながら、僕は多少の焦りを覚えてはいたが、だからどうすることもなく、ただ、時折思い出すミカハちゃんの影に苦しみ、胸を痛めていた。
・・・そんな時、僕は日本から持ってきた荷物の中に一冊の分厚いノートを見つけた。それはボロボロでふやけたA4のノート。ネタ帳と表に書かれたもので、中には雑多な思いついた事が書かれてあった。走り書きのものもあれば、途中まで書きかけていた小説もあった。僕はそれを読みながら、恥ずかしかった。あまりにも稚拙な感じがしたからだ。こんなネタを僕は毎日このノートに、書き綴っていたなんて・・・。頁を捲っていくと、後半は真っ白だった。途中で挫折したのか、何も書かれていない。いつもの僕のノート途中投げ出しっぱだった。と、何も書かれていないノートの隅っこに、落書きがあった。小さな線と丸だけの人間が何頁にも渡って描かれてある。僕はそれがパラパラ漫画だとすぐに気が付いた。僕はその漫画人間を動かしていく。彼は頁が進むたびに、顔が大きくなり、僕に向かって舌を出した。
「べぇ~。ノート、もったいないぞ」
ミカハちゃんからのメッセージだった。彼女がノートを逆から日記のように使っていた。僕がノートを最後まで使わないだろうと予測して、書き始めていたのだ。そこには僕が香港に行くようになって、居ない間の彼女の思いが書き綴られていた。
・・・このノートが見捨てられませんように・・・
・・・裕介の夢がミカハと同じになりますように・・・
・・・裕介は夢を追うのが仕事、私は裕介を待つのが仕事?・・・
そして最後の方には、僕が泣きながら日本を目指す飛行機から顔を出して、
「ミカハちゃん、映画はもう飽きたから帰る。今までごめんね」と、吹き出しに書かれてあり、怒ったミカハちゃんが腕組みをして、「いつまでも待ってないからね」とあった。そして僕が連絡をしてきた日を、幸運の日と呼んでいた事も分かった。僕は彼女を失うなんて考えていなかったし、彼女の幸せを損ねるのならば、いつでも去って行って構わないと思っていた。でも本当は違う。僕はただ彼女に甘えていただけだった。彼女が僕を好きだという気持ちに寄りかかっていただけなのである。愛とはそんなものではない。与え合うものだと思う。
そして貼られていた一枚の写真。下の白い空欄に、ミカハを忘れないでねと、書かれてあった。写真は汚れて色褪せて、彼女の顔はぼんやりとしか分からなかった。
僕はこれ以降、ノートを買って何かを書くという事をしなくなった。
数日が経って、僕は何気にヤンさんにある企画を持ち込んで見た。少女が初恋をした相手をこっそりと追いかけていく。だが、その男は通り魔に殺されてしまう。悲しみにくれた少女に奇跡が起こり、時間が巻き戻る。だが、戻るのは彼が殺される数分前。彼が殺される度に時間は同じ場面へ逆戻りする。彼女は彼が殺されるのをどうすることもできないでいるが・・・という内容の、曲が1曲流れている間だけの物語だった。タイトルは「change・the・world」。この企画をヤンさんが、今進展中の短編映画の企画に入れてくれるという。
それから僕は行きつけの酒場に顔を出すようになった。自分でも気が付かないうちに、すごくゆっくりと、何かが治っていこうとしていた。傷は塞がらないけど、何かで埋めようとする行為を、僕はとり始めている。その酒場は、日本人が来るような事は、決して無かった。薄暗く、誰もがカウンターに蹲るようにして、酒をすすり飲んでいた。僕はその店の奥にある、壁一面が大きな水槽になっている席が好きだった。おかしな体型をした、紫の魚が泳いでいた。僕はその水槽の壁を背にして座った。好きなビールを二杯注文した。それを二時間の間、四、五回繰り返した。酔いはしなかった。ただ、悲しかった。親に生まれて来なければよかったのに、と言われた時でさえ、笑いがこみあげたのに、なぜこんなにも悲しいのか。僕は楽しかった思い出に縋ろうとしたが、酔いは僕から楽しい思い出を奪い去り、ただ悲しさだけを増大させていった。魚がゆらりと揺れ動いた。床を影が移動していく。紫と赤、そして黒が流れていく。僕はその魚の影をじっと眺めていた。
続く