久しぶりにブログアップしてみよう。
といっても、写真と動画だけ。
お客さんノリノリでたのしかった♪
みなさん、ありがとうございました。^o^
少しばかり心の整理がついたので
(四十九日も済んだので)
かしまし娘の歌江センセーについて書いてみたい。
みなさんもご存じのように、1月19日、
歌江センセーは老衰で亡くなった。享年94歳。
私はかろうじて、かしまし娘に間に合った世代で、
小学生低学年の頃、テレビを点ければ、
かしまし娘が出ていたのを覚えている。
土曜の昼は学校から帰ったら「道頓堀アワー」、
そして「ガッチリ買いまショウ」を見ていた。
出る番組はすべてメインだった気がする。
はてさて。
かしまし娘はどれほどのトリオだったのか。
新野新センセーや足立克己センセーそして
保志学センセーほか、いろんな放送作家・
評論家のセンセー方が断言しているが、
これだけは言える。
全国に通用した、「戦後、上方漫才界の最大の
スター」。
テーマソングも、ある一定の年齢から上の人は
みな誦じれるんじゃないだろうか。
🎵
うちら陽気なかしまし娘
誰がいったか知らないが おんな3人寄ったら
かしましいとは愉快だね
ベリーグッド ベリーグッド
お笑い おしゃべり ミュージック
明るく歌ってナイトアンドデー
ぴーちくぱーちく かしましい 🎵
かしまし娘がどれほどすごかったかを角座を例に
話をしてみよう。
それこそ、かしまし娘目当てに松竹が作った
日本一のマンモス寄席・道頓堀角座は、
連日お客さんで賑わった。
かしまし娘が出ると出ないでは、
3割お客さんが違ったという。
万博の年(1970)の、とある1日は、
千人のキャパに六千人もの客を入れたらしい。
当時まだ消防法が整ってない頃で、劇場の受付は
「まだ入れます」とか言って、
入れていたそうな(笑)。
お客さんは入場料を払ったものの客席に
辿りつけず、さながら満員電車のようなロビーで、
漫才を聞いたという。
かしまし娘の出番はもちろんトリか、
もしくは仕事の都合で中トリに回る。
ただ中トリに回った場合、トリはかならず
男性トリオ
(宮川左近ショウか横山ホットブラザース)にする
事が、会社の中では暗黙の了解であった。
かしまし娘をおいて、他の女流にトリは
とらせませんってところ。
松竹芸能は、所属タレント第1号が、
かしまし娘であった事からも、社長・勝忠男
と、かしまし娘の二人三脚で会社を大きくしていったといっても過言ではない。
だからか、反かしましのお浜・小浜や
はんじ・けんじ等が、これまた会社で
反社長派の(秋田派)と組んで、
KAプロを設立して飛び出したりした。
運転手付きのクルマで局から局、そして営業。
家にはお手伝いさんがいて吹田に三姉妹揃って
大豪邸を構えた。
大スターだったから、大スターの自覚はあり、
常に新ネタ新譜を忙しい中覚えた。
他の追随を許さない大看板だったのだ。
だから少しでも他の漫才師の看板が大きいと
会社に文句を言いに行っていたし、テレビ局でも
何かとクレームを付けた。これが幕内で
「ごねるかしまし」と陰で言われる事になる。
その反動か、デビューして売れっ子になった弟子の
敏江・玲児が「ナマイキ」という理由で突如、
会社を所属解除されたことは、会社なりに精一杯の、
かしまし娘への当てつけであったのであろう。
歌江センセーも敏江・玲児が干された教訓から、
「弟子を会社に任せてられない」と弟子の
歌メリ・マリをライバル会社の吉本興業に
任せたりした。
1981年にはついに、ごねる「かしまし娘中心では
会社がもたない」と判断した社長の勝は、
かしまし娘当人になんの相談もすることもなしに、
「かしまし娘は解散します」とマスコミに
発表してしまう。
その後それぞれピンとなり、活動を始めたが、
大スターだったがゆえに使いづらいって事もあり、
思ったように活動できなかった。その当時
今のように漫才畑の人間をピンで起用する風潮も
なかった事ももちろんある。
Wikiでは「解散後も活躍」とあるが、あれはうそ。
本人たちがいかに不本意だったか。
もう少し看板が小さかったら、京唄子師匠のように、
お笑い番組(お笑いスター誕生)の審査員や
ドラマでは嫌われ役の姑(渡る世間は鬼ばかり)でも
できたものを。
蛇足だが、
松竹から、かしまし娘がいなくなってからすぐ、
空前の「よしもとの」漫才ブームが起こる。
これも単なる偶然ではないだろう。
なにより天下をとった女芸人。
後輩(海原千里・万里)をいじめ抜いた
エピソードがあって、師匠の小浜がたまりかねて
「うちの弟子はうちで教育しますから、
どうか見逃してください」と懇願したとか。
あの上沼恵美子を虐めたって、
もう歌江センセー素敵すぎ!(笑)
リスペクトしまくって、テーマソングもその時々
弾かせてもらってます。
歌江センセー、ありがとうございました!
お疲れさまでございました!
ゆっくりお休みください。m(_ _)m
合掌。
※
歌江センセーの自叙伝「女やもん」は
おもしろいよヒロポン!
芸事の話では無いんだけど、いや、でも棋道だから
芸事か。「将棋普及指導員」となりました。
20世紀を代表するピアニストのひとり
ルービンシュタインは、89まで現役で弾いたが、
次のことを、晩年やったという。
①
身体機能の低下を認識し、いくつかの曲を選択し、
それだけを演奏した。
②
それまでの数倍の時間をかけて練習し、
演奏にさらに磨きをかけた。
③
テンポの早い部分が以前のようなスピードで
弾けなくなったため、
音の強弱でアクセントをつけ演奏を補った。
歳とってポンコツと言われたくないなら見習いたいこと。
ルービンシュタインありがとう。大切なことを教えてくれて。
「かながわ軒?」
ん?
「かながわ軒!?」
あー!!!
かつて角座にあったお茶屋さんだ!
こじんまりした住宅街にひっそりと。ww
せっかく見つけたんだ。いちばん安いお茶っぱでもいいや。買って帰ろうと店に入ると、ちょうど商談中。
小売してくれるのかな?
とお店の人にお声をかけて、おかあさんに連れられて角座でよくお茶呑みましたって話をしたら、「オヤジの頃ですね!うわー!ありがたいです!」
W(`0`)W
どうも2代目らしい。
商談中のお相手も、その角座にお店があった頃の話に興味津々になったんだね。いろいろ訊いてきただよ。
ひとしきりお話させてもらって、いちばん安い、この粉末
買いますってゆったら、ありゃ2代目。
「差し上げます、差し上げます。オヤジも喜びますよ。
角座の話をしてくれたお客さんなんて初めてですよ!!」
www
こっちもいいです、いいですってゆって払おうとしても受け取ってくれない。
縁はどんなところで繋がってるや、わからない。
なにげにオリジナルな体験が身を扶けるんだね。
お茶、得した(笑)。
ありがたいな。
だいじに呑もう!)^o^(
コロナ禍の中、私は、自身の夢を考えてみた。
芸の道に身を投じて、もう何十年も前の話だけど、
当時、
私の目標は、
「大看板になって、劇場のお風呂に入る!」
だった。
家にお風呂があるとか無いとかじゃなく。
たとえば角座はさ。
お風呂はね。大看板しか入れないの。マスコミの売れっ子でも、芸が追いついてないような人は、遠慮しなくちゃならなかったような?
そして大看板はね。
偉そうにね。出番前と出番あとと、ご丁寧に2度も入ってただよ。
で、若手やら未熟者、万年三番叟はね。
汗びっしょりかいて舞台降りてもね。
使わせてもらえなかったんだよ〜。(/_;)
※ わからないようにコッソリ入ってる人もいた。
夢。。。外車を乗り回す、とか、テレビで人気者に、とか、
そんな事じゃなかった。
「劇場のお風呂に、堂々と入ってみせる!!」
だった。
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今の子、わかるかなあ?