湯島天神魚十(3)

 

 

● 東陽堂編.風俗画報 臨時増刊(新選東京名所圖會第11編)
     (155).出版社 東陽堂.1897(明治30)年 12月25日発行
 

       によると:

 

   「 魚十樓
    (湯島天神の)社務所の西隣 梅園に接する割烹店、層楼を構え

  て栽籠(さいろう)御にも手を盡(つく)しつ 松は見越しに海鼠壁

  を這ふてつや消しのすりガラスに魚十としたるガス燈の夜目にもそれ

  と。

    (中略)

    魚十主人[小林十吉]はおのが名の十に因みて都下に支店十戸をや

  設けむものをと、向島、日本橋蛎殻町(にほんばしかきがらちょう)、

  浅草公園、同三好町 並に(ならびに)当所[湯島天神境内]に設けて

  未だ十にみたざるに病没して家財分産し、支店も前後破産して一人存

  (そん)するは湯島の魚十のみ。(1)
    明治二年(1869年)上田新兵衛(2)、天神境内陰間茶屋加賀屋津

  の国屋の後を譲り受け(3)、魚十支店と號し活動料理を営む、(4)

  当時社務所の所在地なり、公園地編入の際、萬金、伊勢萬、山月楼

  、四戸の料理店ありしも、引きはらわれて残るは魚十楼一戸、(5)

  次で現在の地に新築す。(6)
  小奇麗なる客間十六室あり、梅園に接して春は梅花席上に薫すべく、

  二層楼の不忍池を見晴らし東台の積翠(せきすい)そぞろに掬すべし

  (きくすべし)。(7)
  薄茶を立てて、茶菓子には紅白の落雁(らくがん)を侑(すす)む風

  味あり。一は鰈に模し真白なる背に「十」の一字を置きて魚十。

  一は紅梅花を型(かたど)れるに「園」としるし梅園を匂はせたり。(8) 

  客筋は概ね官吏、医師なり、また本郷区公民議員集会所に充てられつ、

  大会小集に適す、数奇屋町に天神芸妓(げいぎ)あり、酒宴の席に侍

  るべく、春は上野の花見帰り、秋は団子坂の菊見にと立ち寄る客も多

  かるべし、其の他にも料理は祝儀不祝儀仕出し出前をも営む。

    186、187ページ   引用終

       カッコ内()[] はこのブログの筆者によります。

 

              

      これらのイメージは当時のものではなく、イラストサイト様にお借りしたものです。

 

  (1)深川本店の後に、向島、日本橋蛎殻町、浅草公園、同三好町、
   湯島と、五軒の支店を出したとあります。出店の順番はこの通り

   なのかは不明です。この書物が明治30年発行なので、それまで

   には、湯島以外は廃業して小林十吉氏も亡くなっています。

 

  (2)上田新兵衛(1840年生まれの一代目で、後の長壽のことです)。 

   開店は明治2年で、紳士録本等も殆どみなそうです。 

 

   なお、「明治3年の10月に開店」と記されている書物もあります。

 

     東都芸妓名鑑 : 帝都復興記念.出版者 南桜社.

          出版年 1930(昭和5)年.より:

     「維新前には・・・中略 左記(ここでは下記)の料亭が(湯島

     神社)境内の四辺に軒簾の古きをほこって居たのである。
       松金屋 いせ萬 萬金 山井楼 中萬 ★
     明治初年には此の料亭へ、現天神唯一の老舗である魚十が加

     わった。開店は明治三年陰間茶屋の津の国屋、加賀屋の跡を

     買いつぶし、十月開店したのであった…略…


     明治九年切通しの、しゃも金★★、魚十、並(ならび)に

     俳人夜雪庵★★★の三人主催となり、境内に桜樹三十株を植え

     込み、其の植樹式を二月廿九日に催され、土地の発展の一助

     とした。」 引用終

          カッコ内()はこのブログの筆者によります。

 

        書名の「復興」とは、大正12年9月の関東大震災からの、

       という事のようです。


       ★上掲の「東陽堂編.風俗画報 臨時増刊(新選東京名所

         圖會 第11編)」の山月楼ではなく、山井楼となって

         います。また、同書に無い松金屋もあります。

 

         松金屋は初代歌川広重による錦絵

        「江戸高名会亭尽 湯島松金屋」(1830年代) があり

         ます。(まつかねや。松琴亭とも)

           湯島松金屋    

                (引用:国会図書館)

 

                

                (引用:国会図書館)

 

              参考にさせて頂きました。

 

 

       ★★ しゃも金 不明ですが、”本郷湯島切通しの鳥料

         理屋”と検索すると、店名不詳で昔の話題が出ます。

 

       ★★★ 夜雪庵金羅(四世)  天保元年(1830)~明治27

          (1894)年没 湯島天神町2丁目12番地 近藤金羅。
          自宅は代用小学校である私立練雪小学校で、その校

          長でもある。小学校には画家・小糸源太郎(明治20年

          生)や新派俳優・人間国宝・花柳章太郎(明治27年

          生)も通ったそうです。恐らく魚十上田新兵衛

         (2代目明治5年生)も。

          その後、「明治三十七年三月代用廃止と共に廃校

          となったものらしい。文京区教育史 学制百十年の步み.

             出版社 東京都文京区教育委員会. 出版年1983年.

 

  (3)陰間茶屋加賀屋津の国屋とは、 風流子の休み処」 *

     * 明治語錄.植原路郎 著.出版社 明治書院.

          出版年1978年.

 

   ぼかして言うと江戸時代のホストの類の若者の置屋です。

   陰間茶屋は天保の改革で天保13年(1842年)に禁止されましたが

   残存し、高価なのでお客は裕福な男女共にあったそうです。

   上野戦争で慶応4年(1868年)に寛永寺が焼かれ、そこの、上得意

   の高僧のご来店が見込まれなくなったこともあり廃業したのでは。

 

     江戸から東京へ 第7巻.矢田插雲 著.

         中央公論社.1981.4より 

                            注、「江戸から東京へ」は元は大正時代に書かれたもの

 

     「天神芸妓の門閥たる藤村家は、当時カゲマ茶屋の筆頭であっ

     た。カゲマ茶屋と総称はしても、茶屋は横藤屋、三谷屋、津賀

     屋、千代本の四軒だけで、藤村屋、加賀屋、津の国屋の三軒は

     部屋と呼ばれた。子供と称する美少年は、部屋の方に抱えてあ

     り、見番の手をへて、茶屋に招かれる仕組であった。しかしそ

     の区別もしだいに撤回されて、天保の警動ごろには、茶屋でも

     子供を抱えていた。子供の数を一軒の家に三四人から七八人、

     以上七軒をあわせて常に三四十人の稚子が、準備してあった。

 

  (4)「活動料理」はここでも魚十のキャッチフレーズだったようで

     す。

 

  (5)公園地編入は1890年、明治23年2月7日 湯島天神誌. 出版社

        湯島神社.出版年1978年より。)

 

     「湯島公園 明治二十三年二月七日に、当社境内二千二百九

     九坪余(外三百二十四坪余の崖地)は公園地となって、永続資金

     二千五百円を下付され、地域三千余坪であった。

     当時境内には飲食店・矢場・見晴し掛茶屋、その他各種の

     世物などがあって、昼夜非常に繁盛していた。上申により市

     参事会の決議で公園地に編入せられたので、右建物はすべて

     取払いとなり、梅樹・雑木数百株を植付け、同裏石坂を更に

     現在の地に改築し…」

 

  (6)「当時社務所の所在地なり」そして「次で現在の地に新築す

   とあるので境内で移転したのかもしれません(?)

   元の、陰間茶屋加賀屋津の国屋の二軒の跡地と言っても、それら

   は置屋なだけだったらしいので、そんなに広い土地ではなかった

   のでは?

 

    なお、「上野の魚十普請」の新聞記事があります。しかしこれは

   明治9年なので、「現在の地に新築す」る以前に「元の場所」で普

   請した(建て直しした?)という意味でしょうか? 

 

      「明治9年4月1日、東京曙新聞
        ・上野の魚十と八百松・
     上野山王山下彰義隊戦死の人々の墳墓の裏*
*へ魚十(料理店)、

     東照宮社より不忍大竜寺町へ出る道へ八百松(料理店)***

     軒の出店の普請に取掛かりました。

      新聞集成明治編年史 第二卷.新聞集成明治編年史編纂会 編.

         出版者 林泉社.出版年 昭和11 512ページ

 

                                **彰義隊戦死の人々の墳墓 は、上野公園の西郷さん

           の銅像の後ろにあります。不忍池を越した先に

           湯島天神と魚十がありました。

         ***向島の八百松の支店なのでしょうか?

 

  (7)東台は上野のこと。

      客間は16室。二階建て。

    (10室 そして 三階建てと記したものも見たことがあります)

  

  (8)薄茶に紅白の落雁(らくがん)。

     「鰈に模し真白なる背に「十」の一字を置きて魚十

 

      このブログの筆者(弥の字)は納戸の中で、見たことも無い

      デザインの蚊取り線香(白地に青と赤の柄)の空き箱に入っ

      た住所や屋号を記したスタンプ類の中に単純な魚の図案の

      ようなものも見つけました、あれは「カレイに十」の模様

      だったのかもしれません。落雁、そして、トレードマーク

      だったのでしょうか?

 

  

 

   ●弥の字の独り言

   梅の花の香る季節に二階から不忍の池方面や上野のお山、又 素

   敵な岩崎邸を見渡しながら、お茶に紅白の落雁を頂くのはすがす

   がしかったでしょうね。