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伊能蓉子はK市にある高邑(たかむら)医院で刺絡治療を受けていた。刺絡とは皮膚と皮下の静脈を僅かに切って瀉血させる東洋医学的な治療だ。 腰痛や神経痛に関節痛、リウマチ膠原病その他の骨関節筋肉疾患に効果があるという。不思議なことにこの治療を受けるとしばらくは肉体的にも精神的にも快調なのだ。蓉子は月に一度ほどの通院を楽しみにしていた。

高邑医院はK市の中心にある住宅街の一角にあるのだが、「初めて行く者は必ず迷う」と蓉子は言う。なぜなら高邑医院は住宅街の袋小路状になった突き当たりの奥の”複雑な型”になった路地の奥にあるからだ。蓉子も最初は迷った。迷ったばかりではない。あろうことか、その路地から出られなくなってしまったのだった。

漸く病院に辿り着いたものの、治療後に無事に帰ることができるかが心配になって、医師に相談すると、笑いながら「それでは途中まで看護師に送らせよう」と言われて無事に抜け出すことができたのだった。その後は道の要所にある目印を見ながら辿る”コツ”を掴んで、病院まで無事に行き来できるようになった。

複雑な路地とは・・・たとえば東京駅の地下街のようなものだ。東京駅の下にある街は、大手町や逆方向の有楽町の方まで続いている。初めて地下街に入る者は必ず迷うだろう。たとえ田舎町であっても、再開発されたあとに新造された住宅地というのは都会の地下街と同じような構造を持っている。K市の高邑病院のある一角も同様で、新聞や郵便を配達する人間さえ一度は迷うと言われる。

住宅街の最奥にあり、さらにそこに至るまでに路地が複雑に絡みついているためか高邑病院の存在は小さなK市の住民でも知らない者の方が多い。また病院の傍に住む人たちは高齢者が多く、その大半が高邑医院の患者となっている。病院の一角に居住する者以外の市民たちに、いつの間にかこの病院は幻の病院となり、刺客治療が悪い血を抜くという治療が「あの病院は吸血鬼の病院だ」といった都市伝説ならぬ田舎伝説も生まれたのだった。