宇多天皇は菅原道真を登用して、でかい面をしている藤原氏の勢力を抑えようとしました。897年に宇多天皇は醍醐天皇に譲位(この時、醍醐は13歳)して上皇となります。それから2年後、醍醐天皇は菅原道真を右大臣、藤原時平を左大臣に任命します。「藤原氏以外が右大臣に任命されるとは!」と、この人事に不満タラタラの時平は「道真が醍醐天皇を廃して娘婿の斉世(ときよ)親王の擁立を計画している」と醍醐天皇にご注進。それを聞いた醍醐天皇は道真を太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷してしまいます(901年)。道真の子供たちも土佐や駿河に流罪となります。その2年後(903年)に道真は失意のまま太宰府で死にます。

その6年後に藤原時平が39歳で死に、923年には醍醐天皇と時平の妹の間に生まれた保明皇子(やすあきらのみこ)が死にます。930年には清涼殿に雷が落ち、その3ヶ月後に醍醐天皇が死んでしまいます。人々は「道真の祟り」と恐れ、御霊会を行います(またかよ)。

でも、道真が死んですぐに時平が死んだり関係者の不幸があったのならともかく、なんと6年後に時平が死ぬなんて微妙な祟りですよね。あたしゃ祟なんて信じません。祟りがあるならば、この世の中に悪人が蔓延るはずもないでしょ?

道真は死後に「天神様」と崇められるようになります。道真の怨霊が雷となって清涼殿に落ちたということが雷人信仰と結びついたと言われます。

天神様を祀るのが天満宮です。この天満宮に必ず置かれているのが臥牛像です。道真と牛との因縁は深いようで、「道真は丑年生まれだった」「太宰府に左遷される道真を牛が泣いて見送った」「道真は牛に乗って太宰府へ下った」「牛が追手の刺客から道真を守った」「道真の墓所は牛が決めた」などなどの伝承が残っています。いつからか牛は天満宮のお使いであるということになったようです。