2001年の天皇誕生日に行われた記者会見で席上で今上天皇は「桓武天皇の生母は百済王の武寧王の子孫だと”続日本記(しょくにほんぎ)”に書かれており、韓国都のゆかりを感じる」と述べました。僕は素晴らしい天皇だと感心したのです。

781年、光仁天皇が死ぬと、息子の桓武天皇が即位しました。桓武天皇の生母は高野新笠(たかのにいがさ)といって百済系渡来人の和乙継(やまとのおとつぐ)の娘です。即位する前に光仁天皇(白壁王)に嫁ぎ、能登女王、山部王(桓武天皇)、早良親王の3人の子を産んでいます。和(やまと)氏は、乙継から200年ほど前に百済から渡来したようです。

縄文時代末、大陸から海をわたって米を主食とする民族が移り住み、弥生時代となり、天皇家を形成していくわけですが、どうもこれを信じない人たちがいます。まぁ自分が生まれていない頃の話ですから無理もないのですが、そういう方たちは、維新以降の帝国主義を正当化しようとするのですね。これだって自分たちは生まれていない頃の話なのですが、”声の大きな極右的な人”から伝え聞いただけの話をすとんと鵜呑みにしちゃうのですね。

ま、そんなことはどうでもいいのです。少し本でも読めば理解できることですからね。

桓武天皇は平城京からの遷都を計画して、遷都するために都合の良い土地を探させます。交通の便が良い土地を探すのですが、川があり、水路を活用できるとして長岡京への遷都を決めました。長岡には藤原種継が造営使に選ばれて長岡での都作りが始まります。ところが建物工事をする人間が逃げ出したり、何者かによる建造物への放火などが続いて都作りの工事ははかどりませんでした。

そんなある日、藤原種継が暗殺されます(785年)。桓武天皇は犯人を探させますが、犯人とされたのが大伴家持の一族と佐伯氏の一族数十人でした。彼らは即刻斬首されてしまいます。首魁であると決めつけられた家持は暗殺事件前に病死していました。罪人を埋葬してはならぬということで墓が暴かれてしまいます。

桓武天皇の弟である早良親王も暗殺事件に関わっている(早良親王は東大寺などの南都寺院との関わりが深いために遷都を阻止しようとしたとも言われます)とされて、淡路島への流刑が決定しますが、無実を訴える早良親王は食べ物を口にせず(毒が入っていると思うから食べなかったのだと思います)死んでしまいます。早良親王の亡骸は淡路島に送られます。

792年、桓武天皇の子である安殿親王(あてしんのう:平城天皇)が早良親王の幽霊に悩まされ原因不明の病気に苦しみます。それだけでなく天変地異や疫病が流行した(*)ことから「すべて早良親王の呪い」であると恐怖した桓武天皇は淡路島に寺を建てて早良親王の霊を鎮めようとします。それだけでなく、早良親王を崇道天皇として追称して奈良の地に埋葬します。

794年、桓武天皇は不吉な地である長岡での都作りを諦め、平安京に遷都を決めます。

桓武は霊を丁重に祭ることが禍を回避することにつながるとして、洛北の地に”御霊神社(ごりょうじんじゃ)”を建てて毎年お祭りを行います。これを「御霊会(ごりょうえ)」と言い、現代まで続いています。祇園祭も元々はこの御霊会だったそうです。

(*)桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水など(Wikipediaから)。


平安京遷都で活躍したのが和気清麻呂です。彼は天武天皇系最後の天皇である称徳(孝謙)天皇によって大隅(鹿児島県)に流されていましたが、光仁天皇は彼を都に呼び戻していました。僕は和気清麻呂と武内宿禰は同一人物であると思っています。時代が違う?いいえ、書記は後からテキトーに書いたつじつまが合わぬ書物なので、鵜呑みにする人は誰もいません