東京都内には芋洗坂という有名な坂があります。麻布十番から六本木に向かう途中にある坂が芋洗坂です。谷川彰英さんの『地名に隠された「東京津波」』には芋洗坂というのは都内にあと2つあると書いてあります。靖国神社裏の一口坂もイモアライ坂です。一口は「イモアライ」と読むのだそうです。それから御茶ノ水駅から聖橋を渡らずに秋葉原に下っている坂…僕が湯島の会社勤務時代に毎日のように歩いた淡路坂ですが、この淡路坂も、昔は「一口坂(イモアライザカ)」と呼ばれていたのだそうです。

一口というのは京都の南端にある久御山町にある「一口」が名称のルーツだそうです。ここは桂川、宇治川、さらに奈良方向から流れてくる木津川が合流する地点にあって、全国でも有数の洪水被害が多発するところです。この片隅に稲荷神社で、この稲荷神社に一口の秘密があるのですね。

京都の一口にある稲荷神社の起源は、平安時代の小野篁(おののたかむら)に及ぶといいます。小野篁が隠岐に流罪になったときに大田姫命が現れて「あなたは類まれな人物だから必ず都に帰るだろう。しかし疱瘡に罹ったら命が危ない。私の像を常に祀っていればそれを避けることができるでしょう」と言って消えました。篁は京都の一口に神社を作って祀りました。

その後、江戸を開いた太田道灌の娘(大田姫というのはこの娘のことではありません)が重い疱瘡に罹り、京都の一口から稲荷神社を勧請したのがこの淡路坂(一口坂)の太田姫稲荷神社です。現在では淡路坂の上にこの神社はありません。御茶ノ水駅から小川町に下る坂(ニコライ堂の坂ではなく神保町寄りの日大理工学部と中央大学駿河台記念館の間を通る坂です)の途中に移されています。

......................................以下、wiki参照

小野篁:小野篁(延暦21年(802)~ 仁寿2年(853))は、平安時代前期の公卿・文人。『西道謡』という遣唐使の事業を(つまり朝廷を)風刺する漢詩を作る。忌むべき表現を多用したこの漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、官位剥奪の上で隠岐への流罪に処した。その後、帰京し復職。

太田道灌:永享4年(1432)~文明18年(1486年)室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名。現在の神奈川県伊勢原市にあった扇谷(上杉)定正の糟屋館に招かれて暗殺される。江戸城の父とも言える道灌の墓は、哀れにもこの伊勢原市にある。風呂から出たところを斬り殺されたのです…って幡随院長兵衛みたい。風呂で殺される人って歴史上結構いるのね。義経や頼朝の父である源義朝もそうみたいだし。