今日で、アメブロオフィシャルになって1周年。
昨日のブログでもお話ししましたが、本当に、1年間、毎日書き続けました。
   

   
これね、やっぱり読んでくれる人がいるんだ・・って思うから続けられたんだな。
今、結局のところ「人がいる事」が、全てのモチベーションなのだと、改めて思います。
関わってくださった全てのみなさんに感謝。


オフィシャルになってから僕を知ってくださった方もたくさんいらっしゃるようで、
実は、僕がなにものなのか、イマイチわかっていない、という方も多いみたいなんですね。
なので、2年目を始めるにあたって、自己紹介、というか、
自分の話をします。
   
     

            
ユウサミイ ミュージシャンです。
いわゆる、シンガーソングライターという職業です。

  
まず、よくオーストラリアの話題がでますが、僕はのべ18〜19年間オーストラリアに住んでいました。
主には、ゴールドコーストという街です。
今だに、人生で一番長く暮らした街がゴールドコースト。
ゴールドコーストなら、車で、地図もナビもなしで、だいたいどこにでもに行けます。
こんな景色が当たり前にどこにでもある場所です。


       
21歳で初めてオーストラリアに行って、それ以来20代の全てをオーストラリア永住の夢に費やしました。
オーストラリア永住権取得ための資格経験を、戦略的に、宝石業界オパール業界、と定め、資格取得と経験経歴をつけるために、23〜28歳まで、京都で宝石チェーン店に勤め、2店舗で店長兼外商担当になり、宝石鑑定士の資格をとり、最終的に永住を目指して28歳で、オーストラリアに行きました。
いろんなトラブルもあり、お金がなくなってしまって、僕28で渡豪した時、仕事は決まっている、行ってから1ヶ月は店のオーナーの家に泊まれる、という保証があったものだから、、航空券と日本円20万円しか持ってなかった。


それから4年間のビジネスビザでの就労の後、32歳で永住権を取得しました。
奥さんは、正式に結婚してますから当然僕と同じビザを持っています。
    

  
オパール関係の仕事、お土産店店長、を経て、LVMH(ルイビトングループ)に就職し、FENDIに勤めてました。
だから今でも僕の奥さんは、その当時のFENDIバッグ、今ではビンテージFENDIと呼ばれるようになってしまったバッグをいろいろ持ってます。

 



2000年に永住権を取得して、家を買いました。

 
海から、2キロちょっと。
家の前には湖があって、


家から一番近いビーチまで車で、5、6分。
これが、僕の家から一番近いビーチ。


永住権も取得した、
世界最大のファッションハウスに勤めて平均よりずっと高い収入。
職場まで車で15分、海までは5分、スーパーが三つあるショッピングセンターには徒歩3分でいけた。
仕事は楽しかったし、ご近所さんもみんないい人で、友達もたくさんいた。
僕の家は高級住宅地と言える場所にあったから、僕と奥さんが三菱の車に乗っていた以外、みんな、ベンツだ、ポルシェだ、マセラティだ、クラシックのフィアットだ、そんな車に乗ってた。僕はまだ三菱だけど、いずれそうなっていくだろう、って思ってた。
でも、そんな風になりたいとも思っていなかったから、いっそあんまり仕事もしないで、とりあえずここでのほほんと暮らせたらいいな、って気持ちも少し持ってたりした。
     
僕は、21歳の時にオーストラリア永住を夢に見にみて、28歳で7年間の経験と資格と20万円だけを持ってここにやってきて、

32歳で夢に見た全てを上回る生活を手に入れた。

           

しばらくは夢のような生活でした、
なんにも不自由はなかった。ひとつも不満はなかった。
      
   
なのに、漠然と何かを恐れるようになりました。
何がいけなかったのか、今もわからないんです。
「きっとこれが原因だ」という心当たりはあったけれど、今、それは違ったんだと思う。
今は本当の原因は違うところにあったように思うのです。
僕は、漠然とした不安感をいつもいつも抱えるようになりました。
そして、心を病んで行きました。
        
全てが満たされているはずなのに、心が病んでいった。
失ったものがあるとしたら、目標、でした。
追いかける物、を失ってしまっていたんです。
      
最終的に、薬がなければ生活できなくなりました。

    
いつか、この話は、ちゃんと普通にするようになって、あの頃の僕と同じように不安と心の闇を抱える人の手助けになれば、と思ってはいるものの、残念ながら僕にはいまだそういう勇気はないです。
思い出したくない。その時代の自分と向き合いたくない。
        

   
一度だけ、この時代の事をつぶさに話した事があります。
コロナ問題が深刻になった頃で、今、僕にできる事はこれかもしれない、と思ったからです。
    
友人の美容家、渡辺ゆきよに頼まれて、クローズドのサロンでの公開でしたが、彼女のご厚意で一般公開になりました。
映像は悪いけど、もしかしたら、心の問題で苦しむ人たちに一つの例として、参考になるかもしれない。
  

 


ミュージシャンになったのは、もちろん昔からの夢だったから、もあるけれど、
ぶっちゃけて言えば、リハビリ、の一環でした。
それが、だんだんと、これで行きて行けないだろうか、、と考えるようになった。
というか、これで生きていけなければ、僕は、もうダメなんじゃないか、と思っていました。
    

    
そして、2005年に、自主制作のCDを作り、
ブリスベンやバイロンベイでストリートミュージシャンになり、
とにかく、音楽で何かを見いだすことにやっきになっていました。




自主制作CDが、インターネットを通して日本で少し話題になり、
2007年くらいから年間3、4ヶ月日本に帰ってライブをするようになり、
仕事も辞め、家も売り払い、2013年に日本に完全帰国しました。

帰国してすぐはいろいろ大変だったけど、それはそれで楽しくて、
いつのまにか、ミュージシャンだけで無事に暮らしていける収入を稼げるようになり、

舞台音楽の音楽監督をしたり、日本有数のミュージシャンの方々と共演したりする機会も増え、
これから、どーんとがんばるぞー!!
   
ってところにコロナが来ました。
でもね、これは僕だけじゃない。

世の中の全ての人に、影響を与えた事です。
    

   
去年、3月31日に、Amebaオフィシャルにしてもらって、
それから、世の中は本当に激動の時代に入りました。
今年、個人的には、まず、目の問題で動けないところから始まった。
仕事もできない、運動もできない、ネットも長時間はダメだからパソコン仕事もできない、映画も見られない、本も読めない。
   
ひたすら、音楽をきいて、ギターを弾く、くらいしかできる事がない、
から、今年が始まりました。
    
もう少しの辛抱、もう少し我慢すれば、仕事も含め、いろんな事に復帰できるはずです。
4月8日にもう一度手術、それで、あとは、完全復帰に向かえるはずです。

もう一度、小さな小さなライブからやり直したい。
なんなら、部屋の明かり以外、一切電気を使わない、全くの生音のライブで回りたい。
    
ライブ、再開するときは、初めての方も、もちろんお一人で全然大丈夫。
ぜひぜひ、来てください。
  
今は、しばらくできなかった歌の練習も再開し、なにしろ、その日のために、準備しています。

      
      
          
今、世の中はたくさんの膿をだしている。
このあと世界がどうなっていくのか、不安の中で生きてる人いっぱいいる。
  
大丈夫です。全ては「人類」という自然です。
人、一人にも紆余曲折がある。人類全体、も然りです。
   
   
今までと同じに生きる事、今までと同じに消費する事、浪費する事、攻撃する事、押し黙る事、たった2つ程度の知らなかった秘密らしき事を又聴き知った事で100を知った気になる者、1ページを読まずに一行で1ページの真意を語る者、平和を暴力で歌う者・・・。
      
それでほんとうによかったのか。
冷静に考えれば、僕らはもう、変わっていかなければいけないところに来ていたんです。
   

そういう全てが結果として、今の危機的世界情勢に現れて来たのだろうと思います。
   

明日、死ぬつもりで生きなさい。永遠に生きるつもりで学びなさい。
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.

マハトマ・ガンジー。