発表:大久保

Abstract 
高度に細分化した現代の生物学は、分野ごとに発達した様々な実験器具を用いてデータ収集を行なっており、こうした器具の動作原理もまた高度に細分化した背景理論に基づいている。さらにこうした器具を通して得たデータを分析する段階でも同様の事態が生じる。このような場合多くの生物学者は、いちいち背後にある動作原理を考慮することなく「あくまで知識獲得のための道具」として割り切った利用の仕方をする。しかし、これらの道具は本当に知識獲得のために寄与していると言って良いのだろうか。動作原理のわからない器具や分析法を用いて知識を獲得することは、どのような哲学的背景に基づいて正当化できるのだろうか。

 哲学において「知識」とは、伝統的に以下のように定義されてきた:

主体Aが、知識pを持っているとは、Aとpが以下の条件を満たすとき、かつその時に限る。

1)Aがpを信じており

2)Aがpを信じることが認識的に正当化されており

3)pの内容が真である 

しかしこの定義は先述の事情を考慮するとあまりにも保守的であり、Hardwig(1985)が論じたように、知識概念の根本的な問い直しが必要である。そこで本発表では2)の認識的正当化のプロセスに着目して、「道具」に基づく知識の問題を問い直す。