Royallは1997年の書籍の中で、統計学には目的の異なる三つの主義(-ism)が存在すると指摘した。それが頻度主義、ベイズ主義、尤度主義だ。(Royall自身は尤度主義こそが統計学にとって重要だ、という立場だ。)

 

ここでは、尤度主義から見た頻度主義批判と、頻度主義から見た尤度主義批判について簡単に論点をまとめよう。

 

・尤度主義から見た頻度主義批判

1)頻度主義の推論は、「帰無仮説のもとでそのデータが得られる確率はどれぐらいか」を計算しているので、直接的には帰無仮説のみを扱っている。しかし“ある仮説において、そのデータが得られる確率が低いという理由でその仮説を否定して良いのだろうか??”

 

思考実験:ある二人組は異なる親に育てられたが、実はその二人が兄弟なのではないかと疑われている。その説を確かめるために、10個の遺伝子座についてその二人を比較することにした。すると、10個の遺伝子座全てにおいて二人は同じ遺伝子を持っていた。

・「二人の両親が同じである」という仮説のもとで、10個の遺伝子全てが同じになる確率は非常に低い:

 

・にもかかわらず、10個の遺伝子が全て同じだったというデータは、二人が兄弟であるという仮説を非常に強く支持するデータである。なぜなら、二人の両親が同じでなかったら、10個の遺伝子が全て同じになる確率はもっと低いからである。つまり重要なのは、“ある仮説のもとでデータが算出される確率が高いは低いか”ではなく、今あるデータのもとで複数の仮説を比較することである。

 

2)頻度主義の推論は、n数が多いと関係ない変数間に相関があるかのように見えてしまう。(リンドレーのパラドックス)

3)頻度主義は、一度検定をかけてからデータを取り直してもう一度検定することができない。尤度主義はできる。

 

・頻度主義から見た尤度主義批判

1)尤度主義は実験計画に積極的に関わらないので、扱うデータを、“すでにあるもの” として扱ってしまっている。しかし“どのようにしてそのデータを生み出したか=実験計画”というのはデータを使った推論をする上で非常に重要だし、統計学が積極的に関わるべき話だ。

2)統計学にとって重要なのは、“どの仮説が有力か”ということではなく、間違った判断をする回数を減らすことである(頻度主義の中でも特に、ネイマンーピアソンの仮説検定を推す立場)。

 

つまり、尤度主義にとっては、「与えられたデータから何が言えて何が言えないか」を精査することこそが統計学に求められる役割であり、統計学が客観的なものであるためにはそれ以上のことをすべきではないと考える。この時データは、"given"なものである。

 

一方頻度主義の立場では、この考え方に批判を向ける。