責任は、負える者だけが負うモノ・・・
ドーブレヴィーチェル!!
日本の皆さん、おはようございます。
昨日のブログで、浅田真央選手の姿に、アスリートの魂を見たと書きました。
例えば、こんな声を聞きます。
[もうメダル、メダル言わないで。真央ちゃんに楽しく滑らせてあげて。]
ある人は、SPの原因を 過度の期待やプレッシャー、世間やメディアの声 と言います。
浅田真央を愛する人の声です。
そして、愛するが故の言葉でもあると思います。
しかし、同じアスリートとしての僕の考えでは、少し違います。
いや、根本的にはそう違いはしませんが、もう少し深いところにその問題はあると思っています。
メディアの反応や世間の声が、プレッシャーになる時、
そこには、 勉強しなさい と言われた時の子供と、似たような状況にあると思います。
踏んでいる舞台の大きさや、その規模ははるかに違えど、
同じアスリートとして考えたときに、 メダル・メダル と言われ続けること、
期待されることが、プレッシャーになることは、まずないのではないかと思います。
しかし、
メダル以外はあり得ない
ということになると、それが問題なのです。
あくまで僕の考えですが、
テストで100点を取れる生徒がいたならば、
その生徒は100点を取るように努力しなければなりません。
それは、周りが誰も何も言わずとも、
周りが 100点・100点 とうるさくても、
100点を狙うことが、その生徒の責任です。
それを、 周りが期待してくるから、無理だよ と言って何もしないのでは、許されないし、
周りが何も言わないからとか、
親や先生が何も言わないから、努力しないことも許されません。
それは、100点を取れる生徒だから、負える責任であり、
それを負える生徒は、その責任を負う 努力 をしなければならない。
だから、
メダルを狙える選手がいたならば、
その選手は当然、メダルを狙わなければならない。
周囲の声が何であろうとも、
周囲が何と言おうとも、
それは、メダルを狙える選手だけが負える責任。
その両者に共通して言えることは、 特別な才能 を持っているということ。
その 特別な才能 というのは、 生まれ持った力 だけのことではなく、努力して身に付けたモノ、自分の努力によって手に入れた、 人にはない力 のことです。
そういう生徒は、選手は、
周りと同じでは、当然いけない。
なぜなら、 特別な責任 があるから。
だから、メダル・メダルと騒がれようと、
どれだけ期待されようと、
雑音が響こうとも、それを負わなければいけない 責任 がある。
そう考えると、
冒頭にあげた 周囲への批判 というものは、違和感に聞こえる。
遊びでスケートリンクで滑ってる子供と同じように、ただ楽しく滑らせてあげるなどということは、あり得ない。
自分のためだけに滑ればいいということも、あり得ない。
真央ちゃんを例にとれば、
確かにファンとしての声は、そうかもしれない。自分のためだけに、まるで遊んでいた時のように滑って欲しいと思うことは当然かもしれない。
でも、もはや、真央ちゃんが滑るその たった5分足らず の時間に、一体どれだけの人間の人生がかかっていて、運命が委ねられているだろうか。
というのが、アスリートとしてというよりも、
僕個人としての想い。
だから、フリーであれだけの演技を見せてくれたことに、 アスリートとしての魂 を感じずにはいられませんでした。
まさに、 特別な責任 を果たしてくれた瞬間だったからです。
だからこそ、声を大にして言いたいことは、
メダル以外あり得ない
100点以外ありえない
だから頑張れ。だから勉強しろ。だから練習しろ。だからトリプルアクセルを跳べと、決して言わないことです。
それは、もはや 期待 ではありません。
それが、人間を潰します。
100点を取れる生徒は、
いや、たとえそれが100点でなくても、 ~点取れたらすごいね!! と期待されれば、自発的に頑張ります。
100点でも、50点でも、自分のベストを出せるように頑張ります。
それを潰しているのが、 100点取れるように勉強しろ。 100点取らなきゃダメだ。だから頑張れ。 100点以外意味はない。 といったような言葉です。
長くなってしまいましたが、
6.7年前。
父は僕にこう言いました。
特別な才能には、特別な責任が伴う
と。
それが、僕のブログタイトルの意味でもあります。
浅田選手の負う特別な責任。
浅田選手だからこそ負わなければならない責任。
それを果たし続けようとする努力は、見習い続けなければいけません。
コメント返信のコーナー^^
>幸せ探す旅人さん
お久しぶりです。
覚えていますよ^^
いつもコメントくださっていたので。
またコメントありがとうございます。
感動を与えられる選手になれるように、頑張ります!!