今日は広島撮影旅3日目です。

 

撮影旅なので、

カメラ持って撮影しながら

回っています。

 

そのカメラで撮影した写真は

PC上での現像作業が必要なので、

写真として使えるようにするのに

ひと手間必要なんです。

 

だからここには簡単に使える

iPhoneで撮影した写真を使ってます。

 

さて、

撮影旅も3日目が最終日です。

 

でも、書いてみたら

意外と量が多かったので、

2回に分けることにしました。

 

今回は前編です。

 

今日もよろしければ、

平和学習をご一緒しましょう。

 

この日は朝から雨が降ったりやんだりでした。

広島に来ると、毎日早朝に

平和記念公園をまわりながら撮影してます。

 

写真は朝6時頃の祈りの泉と

平和記念資料館です。

 

祈りの泉は噴水によって

原爆犠牲者に水をささげ続けています。

 

朝焼けが美しいです。

 

朝の平和大橋です。

 

ここは平和大通りという通りで、

道幅が100mあって、

別名”100m道路”とも

呼ばれているそうです。

 

ちなみに全長は4kmです。

 

戦時中に作られた防火帯を

道路と緑地帯へと

つくりかえた感じです。

 

戦争末期に本土への

アメリカの空爆が激しくなってきて

防火帯を設けることとなり、

「建物疎開」が実施されました。

 

建物疎開とは、延焼を防ぐために

意図的に建物を取り壊して

間をあけることです。

 

取り壊しは人力で行われたそうです。

 

原爆投下の日も

朝から建物疎開が行われていて

多くの人が原爆にやられました。

 

朝6:25に撮影した原爆ドームです。

(曲がっててすみません!)

 

日の出前のこの水彩のような雰囲気、

なかなか好きです。

 

今日は強い雨となったので、

今まで行ったことのない

広島市郷土資料館に行くことにしました。

(屋内なら濡れないから...です)

 

広島での移動のほとんどは

広島電鉄(路面電車)です。

 

略して広電(ひろでん)と呼ばれてます。

 

上の写真の電車に乗りました。

 

広島市郷土資料館は、

旧陸軍糧秣支廠という軍事施設を

転用してつくられました。

 

旧陸軍糧秣支廠は、

「きゅうりくぐんりょうまつししょう」

と読みます。

 

糧秣支廠とは、

戦地にいる兵士や馬などのための

食事をつくる工場、という意味です。

 

ここは1911年(明治44年)に

建てられたもので、

1944年の終わりに機械の疎開が

行われるまで、

牛肉の大和煮の缶詰が作られていました。

 

戦後はポテトチップスのカルビーの

工場となっていましたが、

他の場所に新しい工場ができると

カルビーはいなくなりました。

 

その後、建物の大半が壊されて

今では宇品西公園となっており、

残された一部が1985年(昭和60年)4月に

広島市の重要有形文化財に指定され、

翌5月に広島市郷土資料館として

開館しました。

 

上の写真の広場となっているのが

現在の宇品西公園となったところで、

手前にある建物部分が

広島市郷土資料館となった部分です。

 

大人100円の入館料を払って

中に入ると、広島の模型がありました。

 

手前にタッチパネルがあり、

館内の案内やいろんな産業に

ついてのビデオを見ることができます。

 

広島の戦後の歴史についても

展示されていました。

 

写真は平和祈念式典の様子です。

 

コンペによって選出した

丹下健三氏の案を採用して

平和記念公園は作られました。

 

最初は、原爆ドーム、広場、慰霊碑、

そして陳列館(現、平和記念資料館)が

一直線に並ぶ案で、

平和の灯はありませんでした。

 

1955年(昭和30年)に

平和記念公園が完成し、

1964年(昭和39年)に

現在の平和の灯が完成しました。

 

この年の8月1日に点灯式が行われ、

地球上から核兵器が消える日まで

この火は燃え続けます。

 

上の写真は、その点灯式のあった

式典の様子と思われます。

 

 

 

後編につづく。

 

 

 

 

 

お読みいただき、

ありがとうございます。

 

プロコーチ10年目、常楽でした。