■叱る、はいらない

叱らない教育、
すなわち「叱る」は
教育に含まれないとする
接し方
優秀です。

勘違いしている人が
案外多いのが、
「叱る」は教育に
含まれるものだとすること
です。

叱ることは
教育ではありません。


「叱る」の仕組みは
「調教」と同じです。

自分の言う通りにすると
褒めて、
自分の言う通りにしないと
叱る。

「アメとムチ」と呼ばれたりしますが
これは教育ではなく調教です。

常に対人関係が
上下関係
であり、
する側が上で
される側が下です。

教育における対人関係は
対等な関係
ですので、
叱ることは教育ではないのです。

教育される側が自身の課題に
向き合わないからといって
叱って自分に従うようにしてから
その人自身の課題に向き合わせようと
することは、
恐怖で相手を支配するのと同じです。

恐怖で支配すると
支配される側は
支配する人に従う目的を
「もう叱られたくない」
すなわち
「危険を回避すること」
となります。

教育の目的は、
教育される人の社会適応能力を
高めること
です。

それが叱ることにより
「危険を回避する」が目的となると
敵から身を守る方法としての
社会適応能力は育つかもしれませんが、
他は全滅です。

叱ると
相手との対人関係が
悪くなります。


教育をするなら
対人関係は良好なものに
することが基礎
ですから、
叱ることはしない方が良いわけです。

対人関係が悪い相手の言うことより
対人関係が良好な相手の言うことの方が
圧倒的に受け取りやすいですから。

例えば、
相手に必要な情報を渡すとき、
叱ってまず対人関係を悪くしてから
渡そうとすると
相手は受け取りにくくなります


「お前の言うことなんか
聞いてやるもんか」
などと
抵抗を持ったりします。

しかし、
対人関係を良好なものにしてから
渡そうとすれば
相手は疑ったりせずに
受け取ることが簡単にできます。

■鍵は他者への関心

アルフレッド・アドラー
自分にしか関心を持たない人に
他者にも向けるように
援助すること

繰り返し勧めています。

それは、
社会適応能力に不可欠な
共同体感覚を高めるには
他者への関心が必要
だからです。

その共同体感覚を高めるには
「他者は自分の仲間の感覚」
必要とされますが、
叱ることはこの感覚を
壊してしまいます


例えば、
「お前のために言ってるんだ!」
言うことは、相手のためではなく
「あなたのためにこんなに頑張ってる
自分の努力を認めなさい」

迫っているにすぎません。

そもそも言ってる本人が
自分にしか関心が向いていません。


そして、
この主張を認めると味方で
認めなければ敵だ
、と
暗に伝えているわけです。

味方ならやさしくする(アメ)
敵なら厳しくするよ(ムチ)、と。

脅迫と構造は同じです。

これでは
叱っている人を
叱られている人は
仲間と思うことは困難です。

この困難を回避するなら
叱らないことです。

叱らずに関心を
自分ではなく相手に
向けることです。


相手に関心を向ける、とは
自分の利益については
一旦横に置いておいて、
相手の利益について
見ようとすること
です。

まず良好な対人関係を築き
「他者は自分の仲間である感覚」を
自分で実践することです。


その良好な関係が構築されれば
相手は「友好的な聞く耳」
持ちますから、
情報や経験を伝えることは
たやすくなります。

さらには
その相手の関心を
相手自身から他者へと
向けるように促すことも
簡単
になります。

そうして相手に
他者への関心が大切と
伝えることができれば
その相手も
「他者は自分の仲間の感覚」
感じることができるでしょう。

相手の利益を見て
それに役立つ貢献をすることで
共同体感覚は高まります。

そうして共同体感覚が
高まる活動をすると
社会適応能力が高まります。


叱るを使わず
共同体感覚、つまり
他者への関心を持ち
他者貢献していく活動
相手が自発的にやりたくなるよう
促すこと
こそ、教育です。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。




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