■存在と行為を区別する

子は親が好きです。

理由はわかりません。
でも好きです。

ただ、
「親という存在」が好きなので
「親がする行為」も好きとする
必要はありません。

でも
「親という存在」と
「親がする行為」を
重ねてしまいがちです。

なので
どんなに親にひどいことをされても
「親は親で大変なんだ」
「これくらいで親を
嫌いになってはいけない」
なんて自分自身に
我慢を強いるようなことも
してしまいがちです。

親が暴行してきたり
失礼なことをしてきたら
それは「ひどいこと」です。

それは
人として誇れる行為ではなく
恥ずべき行為です。

それは
「相手より自分優先」な行為であって
子の犠牲の上に
親だけの安心を実現する行為です。

子の教育をする親は
ありがたい存在です。

その教育とは
社会適応能力を
高めるはたらきかけです。

でも親が子に
暴行したり
失礼なことをして
親だけが安心しようとする行為は
教育ではないし
それ自体が「親と子」という
小さな社会において適応していません。

そんな行為は
教育とは真逆の行為です。

教育ではなく
子の犠牲によって
自分が安心しようとする行為は
子にとって嫌なものでしょう。

親に依存しないと
生きていけない子にとっては
そんな真逆のことをされても
親を見捨てることはできず、
むしろ親のご機嫌をとってでも
子自身が見捨てられないように
する他ありません。

そんな
「存在は大切」だけど
「されることはイヤだ」という
二律背反の状況となります。

子は生き延びるために
「されることはイヤだ」を
我慢するようになります。

それを見た親は
自分がすることに
子が文句を言わないから
子にも自分にも
何も問題はないのだ、と
勘違いしてしまいます。

でも
イヤなものは
イヤなのです。

イヤなことは
イヤで良いのです。

「親という存在」が
いくら好きでも
いくら大切でも
イヤなことをされたら
やっぱりそれはイヤなのです。

世間的に
「親をきらい」とは
言いづらくなっていると
感じたりして
親にされることを
イヤと感じる自分を
否定したくなったりしますが、

それは
「親がキライ」とか
「親がダメ」とかではなく
「親がすることがキライ」だったり
「親がすることがダメ」なのです。

「親という存在」は
ずっと好きで大切で
良いわけです。

「親がする行為」は
キライでもイヤでも
何も問題ありません。

そうして
「親という存在」と
「親がする行為」を
分けて捉えることで
私はずいぶんと楽になりました。

■私(常楽)の場合

私は親が
自分自身が生き延びるためには
子の自分の命を差し出す人だ、
との確信があります。

なぜなら
そんな経験を何度も
してきたからです。

「親という存在」と
「親がする行為」を
分けて捉えられるまでは

親が大切なのだから
大切な親にどんなことをされても
嫌な気持ちになる自分が悪いのだ、と
自分を殺すようにして生きてました。

例えば
小学生の頃に
親が自分の仕事のミスを
私の責任として
お客さんに話しました。

父親がお客さんと電話で
そう話している話が
近くにいる私によく聞こえました。

自分の目の前で起きていることに
最初は理解が追いつきませんでした。

私は親の仕事のことは
何もしていないのに、
なんで私がミスしたことに
なるんだろう?

子は自分が犠牲になることで
親が喜ぶなら
喜んで犠牲になるべきなのか?

ものすごくイヤな感覚と
自分の犠牲で親が救われるなら
それは優れた貢献であり
自分が役に立って嬉しい、との
矛盾した感覚を強烈に感じました。

電話での話が終わると父親は
混乱している私に
「あ、ごめんね。
そう話して納めるしか
なかったんだよ。」
と言ってきました。

自分自身も被害者だ、と
言ってこられて
ますます混乱します。

親は子を守ってくれるもの
ではないの?

だんだん腹が立ってきて
「僕のせいじゃないのに
僕のせいにされるのはイヤだ」
と父親に言いました。

父親は自分の用は
もう済んだ感じで
もう私の方を見ていません。

追いすがって
「ねえ、仕事のことを
僕のせいにしないでよ」と
言いました。

見捨てられるかもしれないとの
すごい恐怖を感じながらも
断りもなく親の都合で
勝手に利用されたこと、
さらには今後もされるのは
絶対にイヤだと思い
勇気を振り絞って、言いました。

言っても父親は
無視してテレビを見てます。

そんな父親の態度に
悔しさが湧いてきます。

諦めきれずに
父親に言い続けます。

それを見かねた母親が
横から出てきます。

「おとうさんの仕事は大変なの。
だからおとうさんもやりたくて
やったわけじゃないんだよ。
だからもう言うのはやめなさい。」

そういわれても
どうしても納得できないので
言いつづけます。

そんな押し問答みたいな
やりとりが続くと
ついに親が本音を言いました。

具体的にどんな言葉だったか
よく憶えていませんが、
こんな内容でした。

「子のお前さえ犠牲になれば
父親の仕事は守られる。
父親の仕事が守られることで
お前も生きていけるんだよ。
だから父親の責めてはいけない。」

は?
開いた口がふさがりません。

私の承諾を得た上でなら
理解できますが、
私は承諾していません。

そして子は
私以外に姉と弟がいます。

なのになぜ私なのか?

出てくるのは謎ばかりです。

この出来事が
決定打となり、
親を信じられなくなりました。

私のことを
私の承諾なしに
犠牲にすることは当然だと
言う親でも
好きで大切な存在なので

その行為も受け入れないと
いけないと信じて
当時はずいぶんと努力しました。

その後も親は

親が私にウソをついたのに
「ウソをつかれたというウソ」を
私が言っていることにしたり

学校の面談で教師相手に
「親の自分は何も問題ない、
問題があるのはこの子だ。
だから困ったものだ。」と
超然と言い放ったり、

今思えば好き放題してました。

親は親で大変なのでしょうが
都合よすぎです。

親に性被害を受けてもなお
親を大切にしようとしてました。

やがて
「親という存在」と
「親がする行為」を
分けて捉える、という
アイデアに出会って
ずいぶんと楽になったわけです。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。



親への愛憎からの解放
子に「死の宣告」をする親にはならない
今の不幸を親のせいにするのは問題ない