■教育者の怠慢

アルフレッド・アドラーは
「遺伝的欠点」について
こんなことを言っています。

”教師や親が教育によって
間違いを修正する方法を
見つけられない場合に、
それを「遺伝的欠点」に
責任を転嫁しているのは明白だ。”


子供の間違いを修正できる
教育は必ずある、ということです。

それを見つけられない
教師や親の怠慢を言い訳するのに
「遺伝的欠点」を利用しているに
過ぎない、というわけです。

アドラーは共同体感覚を高める活動が
教育である、と言っています。

その共同体感覚が高まるように
「自立」「社会との調和」を
目標に活動すべきで、
その活動を心理面で支えるものとして
「自分には能力がある感覚」
「他人は自分の仲間である感覚」を
使うように言っています。

そうして取り組むと
子供が成長するわけで、
親や教師がいくら努力しても
その努力の方法が間違っていたら
子供は成長しません。

その親や教師の努力が
間違っている場合の言い訳として
「遺伝的欠点」を利用せざるを
得ないと信じる教師や親が
いるだけです。

つまり、アドラーは
「遺伝的欠点」などない、と
言っているわけです。

■無能な人はいない

子供が
好きなこと
嫌いなこと、
得意なこと
不得意なこと、は
あります。

それを「遺伝的欠点」として
教師や親の怠慢を正当化する
材料に利用することは、できます。

しかしそれでは
子供の成長には貢献せず
教師や親の「相手より自分優先」な
行為の材料になるだけで終わります。

もし無能に見える人がいたら
その人の教師や親の無能を
見ていることになります。

つまり
無能な人、は存在せず、
存在するのはただ
無能な教育者だけ、というわけです。

自分を
教育される人の立場に置くと
「なるほど」とうなずけます。

例えば
自分が忘れ物しただけで
殴ってきた教師は
教育者ではなくただの
”私欲を満たしたいだけ”だったと
よくわかります。

殴られても私は
「この人に殴られないようにするには」を
一生懸命に考えるばかりで、
自分の能力を伸ばす道には
一歩も進みませんでしたから。

しかし反対に
自分が忘れ物をしたときに
その忘れ物とは何か、
そして忘れ物をすると
周囲にどんな影響があるのかを
一緒に見てくれた人がいましたが、
そのときは自然と
「忘れ物しない方がしあわせだ」
「だから忘れ物をしないように
今後は注意しよう」
「忘れ物をしないためにできる工夫は
〇〇と〇〇だ。〇〇も役に立ちそうだ。」
と自然に学びを進めてました。

自分の能力を伸ばす道へと
自然に歩いていた感じです。

どちらが教育者かは
明白です。

さらに自分を
教育する人の立場に置くと
自分の過去の怠慢を発見して
「ごめんね」と思いたくなります。

例えば
営業職で「売りたい」という
気持ちはあるのに売れない部下。

「売れる人」になるために
あれこれ助言を繰り返すのですが
一向に売れません。

売れない期間が長くなり
「向いてない」と会社に判断され
営業部から他の部へと異動して
いきました。

当時は「一生懸命に教えたのに」と
思っていたのですが、
今振り返るとその部下の”強味”を
見出そうとせずに
「売れる人」という型にはめこもうと
ばかりしていたように見えます。

他の部下はこれで売れたから
この人もこれで売れるはず、と
思って他が見えなくなってました。

もし”強味”を見出して
それを伸ばしたり、
他の部下の”強味”と
かけ合わせたら
何かの化学変化が起きたに
違いありません。

そう思うと「ごめんね」と
思ってしまいます。

■貢献こそ導きの星

アドラーは
「貢献こそ導きの星」と
言っています。

しあわせになるには
貢献を目指していきなさい
ということです。

つまり
貢献できる自分になることで
自分はしあわせに生きられる、
というわけです。

教育者としては
教育を受ける人の能力、
つまり「できる」や
「好きなこと」「得意なこと」を
見出して、それをいかに
他者貢献に活かせるようにできるか、
を目指していくことで
教育の成果をあげていくことが
できます。

そこに「遺伝的欠点」は
ありません。




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ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。