考え方が大きく変化したのは、希望ではなく現実を受け入れたときだった。



「こうだったらいいのに」とか「こうあるべきなのに」と期待して、目を背けていた現実を認めたとき、今までとは見る世界が180度変わった。



私は現実を愛するようになって、夢に身を焦がされることから自分を守った。



あのまま進んでいたら完全に心を蝕まれて、取り返しのつかない所まで現実を壊していたもの。




考え方が大きく変化するとき、今まで信じていたものを手放すわけだから、未来に対するどうしようもない不安と、過去に何やってきたんだろうと目を覚ますような絶望感に襲われたりする。



だから、怖くて認めたくない。



でも、そこを受け入れたとき、希望通りになってない理不尽でどん底だったはずの今が、何も傷ついていない、ずっとそこにあった安心の場所であったことに気付く。



汚れても劣ってもいないあるがままの現実を、汚れていて劣っていることにしていたのは自分自身だったことに気付く。



気付いて、また見方を変えていく。




今は夢見ることを必要としていない。



あんなにも必要だったのに。



あんなにも理想主義だったのにね。




なぜなら、今はどうなっても、いいからだ。



これは投げやりな意味ではなく、どんな現実も受け入れる覚悟があるし、それを乗り越えていくから。



人生は自分が思っているよりも、何が起こるかわからない。



そして、期待通りには進まない。



それが現実で、それがいい。




今は起こることに完全に降伏している。



私はまな板の上の鯉なのだ。



煮るなる焼くなり好きにして下さい。




そして、起こることは起こるから、必要なときに必要な感情が湧き、意思が決定し、私は決断を下すことになる。



その繰り返し。



それは自動的に起こっていて、私が何とかしようとしなくても、それが起こっていく。



私はその景色を楽しませて頂くし、その景色が好きだ。




今が好きで、安心している。



それは、他人からどう評価されるかとは関係なく、私の実感としてのこと。



揺さぶられることなく、この実感をいつも大切にしていたい。



ご飯が美味しいとか、隣にいつも温かい眼差しを向けてくれる人がいることとか、風を肌で感じ季節の花を楽しみ、ちょっと人と繋がったような気持ちになったり、音楽に高揚したり、そんな実感が私を私として存在させている。




どこに行っても、どんな景色を見ても、そこにいるのは私という実感。



この体、頭、心。



だから、どこに行くかではなく、どこに行っても大好きで愛しい自分でいたい。



そんな寛容な心を自分にも、傍にいて愛する機会を与えてくれた大切な人にも持っていたいな。