日本でもコロナウィルスは収束しつつある。
東京都でも25日に緊急事態宣言が解除され、経済が回復していくだろう。
約2ヶ月、「Stay Home」の掛け声とともに人々は自粛してきた。
これから先、元の生活に戻るのか。それとも今回の経験を元に生活は変化するのか。
個人的に、この2ヶ月はとても面白い経験をさせてもらったと思っている。
生まれて始めて経験する「自由の制限」に直面した。
身近なところでは「マスクなしでの入店禁止」から始まり、海外旅行の制限など多々あった。
そうした制限の中で時に不自由は感じることもあったが、それがストレスになる程でもないというのが印象だ。
今まで「自由」が望ましいものとされていたが、その「自由」が余分でしかないことが白日に晒されたわけである。
一方で自由が制限されることで、ストレスを強く感じている人もいるはずだ
最近の政治に対する人々の感応度の上昇や、SNSを通じた攻撃性の高さの背景には自粛ストレスもあるだろう。
彼らにとっては「元の生活」こそがベストであり、今回の自粛は損失として認識されたわけである。
損失の内容は雇用の話なのかもしれないし、健康の話なのかもしれない。それはとても重大な問題である。
ただリスクは常に存在していたわけで、それが表面化した瞬間に政治や外部にストレスをぶつけるというのは、やや幼いと言わざるを得ないのではないか。
ギャンブルに行って、負けた時に店が悪いと主張し、デモを起こす人はいないだろう。
リスクは常に存在するのである。そのリスクにどう対処するのかを考えることまでが、日常の範囲であるべきだ。
そういう本来的な「当たり前」を考えるきっかけだったとも言えるだろう。
こういう状況の中、何が「自由」であるということなのか、という問いを持つに至った。
憲法で保障されている自由は
・思想・良心の自由
・信教の自由
・学問の自由
・表現の自由
・集会の自由
・結社の自由
・職業選択の自由
・居住移転の自由
・海外渡航の自由
等、たくさんあるらしい。日々、これらの自由を行使するのが普通になっているため、意識することは少ないが。
さて、この中で真に僕にとって自由だというのは、やはり思想・良心の自由なんだと思う。
外部環境がいかにあろうと、全ては解釈次第であるとするならば、「自分がどう捉えるか」という部分が担保されていれば、ある程度自由である。行動は自分の思想があってこそ、伴うものであり、優先順位は後なのではないだろうか。
一方で人々が思っている「自由」というのは、行動の自由が何よりも先にあるような気がしている。
自分が思ったように振る舞う、言葉にする、そういうことを自由とイコールの関係に捉えているのではないか。
思想の自由は当たり前で、自分が自分でいることも当たり前で、自分の欲求を満たす行動を絶対視しているように見える。
だから、今回のコロナ騒動で自分の行動が制限されることに対して、過度なストレスを覚えるのだろう。
この機会に内面に自由を見出せばいいのにな~と思うのである。
ただ、こうした事態も明日には一服するわけである。
人々はまた元の生活に戻るのだろう。一過性の事件で終わってしまう気がしてならない。
まあ、それを悲しむのもお門違いであろうが。
全くの余談だが、今回のコロナ騒動を受けて、僕はVRへの投資が進むと思っている。
近いうちにVR上のみで会議、接待が行われる企業が出るに違いない。
そういう環境の中で固定資産を抱えている人々が負け始める可能性がある。
リアルからバーチャルへ社会の軸足が移る絶好のきっかけになるのではないか。
そんなことを考えた次第である。