色々な文章や考え方が、ネットで探してみたりすると特に色々ありますが、

「何を伝えることを目的にしているのか」を考えてみると良いですよ。

 

 

特定の能力の重要性を説いているものもあれば、

「努力している人」など、特定の属性の人へのエールだったりとか。

 

そして何かを応援したり肯定したりすることだけでなく、

その事柄の反対側を否定することも隠れた目的になっている文章もありますよね。

 

 

色々な文章や考え方を取り入れるかどうか選ぶときに大事なのは、

「正しいかどうか」ではないです。

その言葉を取り入れた時に、「自分を良い方向へ向けてくれるかどうか」、です。

 

 

「正しいかどうか」で考えると、まぁ大体は間違っていないですよ。

ある状況には適しているだろうし適していない状況もある、そんなもんです。

 

でもある種の正しさがあったところで、

それを取り入れて自分が元気なくなったりするだけなら何の意味もなくないですか。

 

 

「権威ある」と感じる人が発信していたとしても、

多くの人がその考え方を信じていたとしても、

いくら正しく感じても、取り入れない方が良い文章や考え方って、あるんです。

 

 

食べ物と一緒でさ、

いくら栄養価が高いよーって話だとしても、

重度のアレルギーなら食べるべきものではない。

文章や考え方でもそういうことって、ある。

 

で、これも食べ物と一緒で、

今の自分自身に合うもので、目的に沿ったものを取り入れると良いよ。

筋肉を付けたいならタンパク質を多く摂るように、

望む方向に向かって後押ししてくれたり、

何か良いものがあるように感じるものを取り入れると良いです。

 

あと、「正しいかどうか」が気になる時って大体取り入れない方がいい。

「取り入れたくないけれど、取り入れなければならないような圧力を感じる」、

そういうサインだから。

 

 

そんな程度のものですよ、文章って、考え方って、言葉って。

 

自分の人生の方が、どう考えても大事じゃないですか。

 

特定の言葉に傷つく時、特定のパターンに傷つく時。

 

そしてその傷つき方が、「まぁ当たり前に酷いことだよね」という感じでなく、

誰かに必死で訴えなければいけないような気持ちになったり、

怒れば怒るほど、惨めになっていくような気がする時。

 

 

それは、「世界は私のことをこう扱う」という思い込みがある。

 

それは裏を返せば、「私は世界からこう扱われる人間である」という思い込みだ。

 

 

私が私の扱い方を間違えている時に、その傷付けられ方を惨めだと感じる。

傷つけられた時、丁寧に見ていけば私が私の誇りを取り戻すチャンスにもなる。

どの思い込みを変える必要があるのか、傷つくことは教えてくれる。

 

***

 

私の例なんですけれど、

「親を助けてあげなさい」ということを言われるのがすごく嫌でした。

 

親がまた、私から見たら明らかに無駄な関わりを親族にして助けようとする人で、

親がそれに疲れて私がケアをするということに最近とても疲れていて、

そして何度でも繰り返されて徒労を重ねさせられる気しかしなかったんです。

 

その時かけた電話占い師さんに言われたことが上記の言葉でした。

「あなたが強くなって、母親をいい方向に導く力をつけるのがいい」と。

 

私は冷静でいられなくなって、その電話を切りました。

 

 

さて、ここからは、ある程度思考も使って探してみるところです。

 

私がケアする立場の人に傷つけられる言動をした時に怒ってこなかった人なら、

今回の一件で自分の立場から怒るということを許可するチャンスになります。

ただ、私の立場から相手に対して怒ることは自分自身に許せていたし、

怒り続けてみたところで突破口がある感じもしなかったので、今回は違いました。

 

それに、占い師さんの言っていることが間違っているわけでもありません。

というか今まで母をケアしながら突破口を見つけるのは何度もしてきたし、

まぁ今回もなんだかんだでそうなんだろうなーというのはどこかで思ってました。

そういうわけで、「母親を幸せにしたくない」わけでもないのです。

 

 

この一件で得られた大事な情報は、

「親を助けてあげなさい」と第三者から言われるシチュエーションが

冷静でいられない程傷つくことです(ここまでとは無自覚でした)。

 

もう一つ、傷ついたということは別の言葉を期待していた、ということです。

そして他人に何かの言葉を期待するということは、

自分自身でその言葉を必要なのに自分にかけていないということです。

 

更に掘り下げてみると、「親」の部分に他の人が入ったとしても不快感はあり、

その不快感は他者に対する漠然とした嫌悪感、警戒感と同一の感覚でした。

 

 

不快感を言葉にしてみると、

「世界から『お前より他の人たちの幸せの方が重要だ』と言われている」

という感覚だと思いました。

 

それは、「私は他の人より幸せを尊重されない存在である」ということになります。

 

そして、世界の方が、特定の人だけを扱いを変えるという存在ではないので、

「私が、私は他の人より幸せを尊重されない存在である」と定義づけているのです。

 

この部分は、今回初めて辿り着いた部分でした。

 

 

これで、思考を使って問題点はある程度的を絞れた感じがするので、

今度はこれをどうすればいいか、自分自身にそのまま聞いてみます。

 

「私は幸せになってもいい」、と、自分に言い聞かせることが必要だと感じました。

 

その時、「あ、私って自分の幸せを完全には許可してなかったんだ」と気付き、

初めて「私は幸せになってもいい」という言葉の意味を理解した感じがしました。

 

 

「幸せになってもいい」「自由になってもいい」という言葉は、

思い返せば色々な所で言われたり、触れたりした言葉でした。

 

今回の一連の経験で初めて「自分自身に対してそう思っていない」ことを知り、

それによって初めてそれらの言葉を、きちんと受け止められるようになったのです。

 

何を書けばいいのか分からないまま、気が付けば1ヶ月が経ってましたね。

ちょっと初心に返って最近気付いたやりたいことの話をします。

 

 

「何なのか分からないけど、ちょっと楽しい体験」を届けることがしたいです。

その人の悩みと向き合うとか、その人の視野外の活路を開く瞬間に立ち会うとか、

そういうことをやりたい気持ちはあるんですけれど、

それとは完全に別の話みたいです。

 

占いに対して一般の方が思っているイメージが一番近いと思います。

タロット占いは具体的な悩みに対して具体的な回答を出すのが得意なんですが、

「何が出てくるか分からないけれど楽しみ」みたいな、

絵のイメージを楽しむみたいなフランクな使い方もできるんですよね。

 

あと、文通ではなく手紙が欲しい人に手紙を書く、みたいなこともしたいんですが、

それも悩み相談、というよりは「何か楽しみ」を体験として届けたいんだな、と。

 

 

この辺り、何となくは分かってたんですけれど大きく考えてしまうことが多くて、

気が付けばそんなにやりたくもない形になっていることが多かったんですよね。

 

小さな規模の望みを小さいまま楽しんで大事にする、ということ、

意外と盲点になりやすいことだなぁ、と、実感したという話です。

 

 

「わかってほしい」って、

自分を相手に適切な形で知ってほしい、という欲求じゃないんです。

「適切に」、じゃなくて、「特別に」扱ってもらわないとダメなんですよ。

 

「特別に」扱う、というのが何かというと、

「適切に」「正当に」という範囲を超えて、

相手が相手の立場を投げ捨てて100%被害者としての自分の立場に寄り添ったり、

その結果として、何らかの侵入や迷惑を仕方がないものだと納得する、

そういう対等でない特別扱いを示してもらう、ということだったりします。

 

「わかってほしい」って、それ自体が加害的な欲求なんです。

単に自分のことについて知って欲しいという可愛い欲求じゃありません。

相手に対するコントロール欲求です。

 

 

あと、人間関係の加害的な関わりの根底が「わかってほしい」なことも多いです。

自分が被害にあったから相手に同じ思いをさせる、というのも、

「その時の自分をわかってほしいから」、そうすることも多いです。

意見の押し付けにも「わかってほしい」はかなり絡んできます。

 

「わかってほしい」が「わかってもらえた」と感じる時があったとしたら、

その時感じているのは相手を支配した快楽です。

だから一回「わかってもらえた」からって納まりません。

また、時間が経つとむくむくと、「わかってほしい」が出てきます。

根本的な解決ではないただの快楽だからです。

 

 

「わかってほしい」が出てきた時、考えるべきは、

「どうやって相手にわかってもらうか」ではなくて、

「どうやって相手にわかってもらわなくても良い状態にするか」、です。

 

 

で、否定したところで欲求というのは消えるものではありませんので、

そういうものを抱えているということ自体は認めつつ、

どこに落とし所を用意するかを自分で掘り下げることが、そこからは必要です。

 

手に負えないのであれば、セラピストなどのプロの方の手を借りる手段も使います。

プロの手を借りてでも、自分で処理をします。

 

 

「他人には自分が思うように自分を理解する義務などない」ということを、

どこまでも深く、腑に落とすこと。

多分その度合いが、自分自身で幸せを掴むことができる度合いにもなると思います。

 

ケースによっては当てはまらないこともあるかもしれないですが、

私が個人的に、大事だと思っていることを書きます。

 

 

「幸せ」になっていく方法、その過程。

様々な心理療法やセラピー、スピリチュアル的なやり方もありますが、

「この経験によってなら幸せになってもいい」と、

本人が思えるやり方でないと回復していかない、ということです。

 

どんなに他の人にとって成果のあるやり方でも、

「こんなやり方で幸せになりたくない」と思う方法だったら上手くいかないです。

そしてどのやり方なら良いと思えるかは、その人の価値観や

その時得たい体験が何なのかにも因ります。

 

 

苦しんでいるところから幸せになること、って、

その人の人生にとっても核になるイベントだったりします。

また、誰かに理解してもらう経験や、本当に好きな世界の中に入る入り口として、

その経験のために苦しみが必要になっていることもあります。

 

 

人生を変えるような分岐点を、好きでもなければ自分の中にニーズもないやり方で

誤魔化すように何とかしようとしても効果がない場合がほとんどだと思います。

 

「話をしっかり聞いてほしい」とか「何か特別な体験によって変わりたい」とか、

自分の中に苦しみを使って体験したいことが見えているなら、

それを叶えることが多分一番近道です。

 

どういった方向性で、どれ位の熱量をそこに注いでもらって、

どういう経験をすれば「幸せになっても良いかもしれない」と思えるのか。

あとそうですね、「この人に関わってもらいたい」と思えるかも重要ですね。

 

幸せになる、そのための方法を色々探すという経験は、

どこまで自分を尊重し、敬意を持った選択ができるか、ということだと思います。