「花子とアン」の中途半端なオリジナルの演出がやたら気になる今日この頃。




っていうか、オリジナル脚本だとあんなに主張するのなら、主人公の名前は「村岡花子」にする必要はなかったのではないか?

とどうしても思うのです。


「花子とアン」は赤毛のアンの翻訳者である「村岡花子」の人生を原案にしたオリジナル脚本ということなんだけど……。


役名も「村岡花子」なのであれば、視聴者はどうしても「村岡花子」の人生そのものとして解釈してしまうと思うのです。


果たしてそれでいいのでしょうか?

今回のドラマあまりに無理で無意味なオリジナルが多すぎて、もちろんリアルな話もその間に入っている訳で…。


朝ドラが好きな高年齢層は、もちろんドラマを観たまま花子の生涯をそういう歴史と受け取るはずで。


本当にこれでいいのか?とどうしても思ってしまうのです。


私が観たことある朝ドラで、実在の人物をモチーフに描かれたものが一つあります。

それはカーネーション


コシノ三姉妹のお母さん小篠綾子の人生を描いた作品だったのだけど。

これは見事に忠実に描かれているっぽくって。


ドラマが面白かったから、小篠綾子さんの事が気になって、本人が書いたエッセイを読んだことがあるのだけど。



あのエピソードもこのエピソードも本当の話だったんだ!って驚かされた。

もちろん演出部分も多々あるのだろうけど、本人が書いた本の内容とテレビで受ける印象がほぼ相違ない形で描かれているなぁって思った。


例えば、子供たちが「ピアノこうて」ってひたすらねだるシーンがあるんだけど。


そういうのもホント。


一つ、事実と大きく違うことがあるのだとすれば、綾野剛が演じた周防さんとのくだり。



ドラマではさくっと別れたことになってますが、25年程連れ添われていたようです。
本人の自著に書かれてます。

気になる方はこちらの記事をどうぞ→NHK連続テレビ小説「カーネーション」をそろそろ語らせて!

もちろんドラマですもの。演出あってこその感動。


なのだけど~。


「花子とアン」はちょっとひどいと思う。


事実認識を取り違える人が沢山生まれちゃうだけの作品になるような気がして…。


あぁこうして私たちは、歴史を間違って刷り込まれるのだなぁと、毎朝思うのです。



ちょっと長くなってきたので、記事を分けますね。

次は、具体的にどこが違うのかっていうのを書いてみたいと思います。