つい数年前まで、いやつい最近まで、本気で思ってました。
「差別なんてあって当然でしょ?」って。
競争主義社会にどっぷり浸かってしまった結果です。
その頃の私が幸せだったと言えば、そうではありません。
毎日、毎日競争に勝つことばかりが大事で、全ての物事に善悪をつけて、いつも自分の主張を善であると通したくて、
なんだか一緒にいて疲れる人だったと思います。
実際、幸せを感じれる瞬間なんてほとんどなくて、刹那的に生きていたと思います。
だいたいはストレスと苦労に苛まれて、でも、それを人生だと割り切っていたように思います。
いつか報われるって、不確かな事を自分に言い聞かせて生きていたように思います。
今は思います。
「全ては間違いだったと。」
この世の中に善悪などなく、善悪など起こるとするのであれば、それは植え付けられた常識によるもので。
その常識すら、今やかなり危ういのです。
お金持ちは素晴らしいだとか、権力がある人は素晴らしいだとか、ね。
産まれた時から、競争社会で、なんとか勝ち抜く事ばかりを考えていました。
でも勝ち抜いた所で、幸せなんて転がってません。
次の競争が待ってるだけです。
そんなの疲れて当然で、心身が壊れて当然だと思います。
私は、数年前に自分の考えを見直したくなって、これ以上競争する事に疲れて、下山し始めました。
今のが、俄然幸せです。
幸せは、いつも自分の「今」にあるという事を実感できています。
そして、「差別があって当然だ。」という、30年以上続いた私の確固たる定義は、崩れ去りました。
差別などあってはいけない事です。
今の世の中は、大きく一つの物差しだけで人を判断する傾向があります。
それは資本主義に適合できるか否かという事です。
その主義に適合できる人は、良い待遇を受け、そうでない人は良い待遇が受けられない。
ただ、それだけの事なのです。
それは、大いなる歪みをこの社会に与えていると私は考えます。
地域の違いや国の違いがあっても平等に暮らしていく。
それが、これからの社会に必要な信念だと私は思います。
「差別なんてあって当然でしょ?」って。
競争主義社会にどっぷり浸かってしまった結果です。
その頃の私が幸せだったと言えば、そうではありません。
毎日、毎日競争に勝つことばかりが大事で、全ての物事に善悪をつけて、いつも自分の主張を善であると通したくて、
なんだか一緒にいて疲れる人だったと思います。
実際、幸せを感じれる瞬間なんてほとんどなくて、刹那的に生きていたと思います。
だいたいはストレスと苦労に苛まれて、でも、それを人生だと割り切っていたように思います。
いつか報われるって、不確かな事を自分に言い聞かせて生きていたように思います。
今は思います。
「全ては間違いだったと。」
この世の中に善悪などなく、善悪など起こるとするのであれば、それは植え付けられた常識によるもので。
その常識すら、今やかなり危ういのです。
お金持ちは素晴らしいだとか、権力がある人は素晴らしいだとか、ね。
産まれた時から、競争社会で、なんとか勝ち抜く事ばかりを考えていました。
でも勝ち抜いた所で、幸せなんて転がってません。
次の競争が待ってるだけです。
そんなの疲れて当然で、心身が壊れて当然だと思います。
私は、数年前に自分の考えを見直したくなって、これ以上競争する事に疲れて、下山し始めました。
今のが、俄然幸せです。
幸せは、いつも自分の「今」にあるという事を実感できています。
そして、「差別があって当然だ。」という、30年以上続いた私の確固たる定義は、崩れ去りました。
差別などあってはいけない事です。
今の世の中は、大きく一つの物差しだけで人を判断する傾向があります。
それは資本主義に適合できるか否かという事です。
その主義に適合できる人は、良い待遇を受け、そうでない人は良い待遇が受けられない。
ただ、それだけの事なのです。
それは、大いなる歪みをこの社会に与えていると私は考えます。
地域の違いや国の違いがあっても平等に暮らしていく。
それが、これからの社会に必要な信念だと私は思います。