誰の言葉、私の言葉。 | 昨日の散歩道

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富野結理(とみのゆり)のたいしたことない日常、
たいしたことある非日常(!?)を散漫にお送りしています。

当たり前だけど小説や音楽、その他諸々の芸術作品なんて呼ばれてるものには著作権がある。

もちろん演劇…、今回の話の場合には戯曲のこのを指すのだけれど、戯曲にも著作権がある。
だから上演するのにも許可が必要だし、上演料を払って劇場で上演する。
そして芸術作品とやらを創る上で、何か過去の作品を引用する場合にもまた、許可を取らなければならない。

ややこしいけど、それは作者と、作者の作品を守るためのもの。
最近だと漫画の映像化で揉めごとが起こり、それには著作権云々以前の問題があったとは言え、結果的に物創りをした漫画家さんが自ら命を投げてしまったことで世間を騒がせた。
0から1を創ることのできる人が命を絶ち、1を“ブラッシュアップ”という名の下に好き勝手創作した人達が逃げ回っている現状は、数ヶ月が経過しても何も解決していない。
0から1を創り上げることがどれだけ大変なことか、そしてどれだけ命をかけて、時間をかけて、身を削って作品を創ってきたのか…、これらを想像できない人達が、自分の子供のように大切に創り上げてきた作品をレイプして、今も普通に生きている。
作者の権利とは何なのだろう?

最初に言うが、私は著作権で揉めたことはない。
当たり前だ、揉めるほどのものを世に出していないのだから揉めるわけない。
そして私自身も、執筆の際には極力他の似た作品がないか気をつけるも…、世の中には似たような構成、プロットの作品が多く、自分ではリサーチできない、知らないところで簡単に言うとパクったプロットを作っているかもしれない。
ネット検索にも限界があるし、もし私が悪意なく何かを知らぬ間にパクっていたら、それは是非とも教えてもらいたい。

…と、これはあくまで芸術作品とやらを創る際のお話、そして作品になった場合のこと。
それよりももっと前の話、例えば飲み会で酒の力も相まって、無駄な演劇論なんてした時のこと。
飲み会の席で演劇論を語るほどバカらしいことはないのだけれど、うっかり本気になって「戯曲の執筆を含めて…、自分が演劇をやる意味とは?何故、演劇なのか?どうして演劇をやるのか?」なんて永遠に答えの出ないことを、あーだこーだ言ってしまう日もある。

あくまで私の場合。私の話。
私の自己紹介文なんかにも書いてるから先に言うが、「演劇が“明日の糧”になってくれたらいい」と答えている。
公に言っている上に、結構な頻度でその言葉を使って答えている。
具体的に言うと、「演劇なんて観ても病気や怪我が治るわけじゃない。自然災害で被った被害がチャラになるわけでもない。借金で困ってる人がいるならばその借金がなくなるわけじゃない。パワハラやセクハラを始めとしたハラスメントで悩んでる職場環境が改善されるわけじゃない。学校の勉強ができない子が観劇した翌日から急に勉強ができるようになるなんてことは一切ない。」…じゃあ何で演劇なんて観るの?演劇って無駄じゃね?となる。
だからこそ“明日の糧”という言葉を使っている。

はっきり言って、観劇したからとて現状抱いている観客の問題は全く解決しないし、医者や消防士のように人の役には全く立たない。
それでも演劇をやる理由、それは「今、現状で嫌なこと、困ったことがあっても、この観劇している数時間だけ…、その時間だけでも笑って泣いて、現実の問題を忘れて楽しんでほしい。そして観劇後に『明日も嫌な仕事があるけど、今日面白いもの観たから…、明日も仕事行くか〜!』って、ほんの少しでも明日を前向きに迎えてもらえたら、演劇が存在する意味ってあるんじゃないかな?」って思ってる。
というか、演劇はそのためにあるんだと信じてる。
だから観客の皆様の“明日の糧”になってもらえたら本当に嬉しい。

これは演劇にかかわらず、音楽ライブもそうだし、映画館での映画鑑賞もそうだし、好きな絵画を鑑賞したり、今流行りの「押し活」というの全般は“明日の糧”のためにあるんじゃないかと思う。
決して安くないチケットを購入して、劇場までの往復交通費を払って観に行くのだから(場合によっては遠征費もかかるわけで)、わざわざ観に行って全然面白くないとか、舞台に立つ人がやる気がないとか、そういうものを観せられたら「二度と行くもんか!」って思うでしょ?全く明日の糧にもならず、ただイライラだけがつのって、金返せ!ってなったら嫌じゃない?
だからせめて、「明日もひと踏ん張りするか!」って思えるものを我々は提供しなければならないし、明日の糧にもならない演目なんて必要ないとすら思う。

というわけで、私にとっての演劇とは「皆様にとっての“明日の糧”になれたらいいなというもの」という言葉がしっくりくる。
一応、自分の中で考えて出した答えで、そして言葉であり、自分なりの言葉遣いで生み出したものなんだけど、もしかしたら無意識で誰かが言ってたのをパクってる可能性もある。
パクってる可能性は0ではないけど、とある場で「演劇とは?」と尋ねられたことをきっかけに私は自分なりに言語化したので、たぶんパクってない…、というか自分の言葉だ。

しかしこんな途方もない話、こんな言葉には当たり前だが著作権は存在しない。
自分の信念やポリシー的なものを言語化したものにも著作権があったらビックリだ。
だからある意味「フリー素材」的なものになってしまうのだけれど…、この話をした相手が“明日の糧”とまでは言わずとも、ほぼ同じ言葉で世間に発信してるとなると…、いい気はしない。
相手というのも難しいけど、この場合は「永遠に答えの出ない演劇論をあーだこーだ言ってた時に目の前にいた人」のことだ。

しかも結構な公の場で言っていて、それでは私の方が二番煎じ、いやパクりになるのではないか?私の言葉であり、私の信念なのに…となる。
というか、現実にそうなってしまった。
ショックだけど、それよりも悲しかった。
事前に説明しておいてくれればまだマシだったけど、あたかも自分の言葉のように述べており、正直呆然とした。
でもこの信念には著作権は発生しないので、相手を責めることはできない、私は泣き寝入りするしかない。

流石にこういう言葉まで公の場でパクってくるような人だと思ってもみなかったし、そういう人じゃないと思っていたので安易に信念をバカ真面目に語ってしまった私が悪いのだろう。
…そう割り切ることしかできない、全く割り切れてないけど。
その人は元々少し話を盛る癖のある人ではあったけど、まさかあの時語った信念まで使われてしまうとは…。
まあ、モヤモヤしてますが、私は泣き寝入りです。残念。