先日、夫の6回目の命日を迎え、お墓参りに行ってきた(お墓というか、納骨堂だけど)。
三が日の朝早い時間に、まだ参拝者も少ない納骨堂で手を合わせていたら、病院で迎えた5年前の朝もこんな日だったような気がして、記憶が蘇った。
正月の朝の街はいつもより人通りが少なくて静かで、そんな中、私は夫と一緒に葬儀社の黒い車に乗って病院から家に戻った。
あれから5年。
世間はお正月で晴れやかな雰囲気なのに、毎年この時期に夫の命日を迎える私は、とても新年を祝う気持ちにはなれず、自分だけが不幸な気がして恨めしくもなった。
しかし、お正月休みで誰とも接触せず静かに過ごすことができるのは、かえって良かったのかもしれない。
納骨堂のモニターに映し出された夫の写真を見つめながら、色々なことが頭をよぎった。
この写真を撮った時は、まさか数年後には夫がこの世にいないとは想像もしていなかった。
夫はもっと生きて色々なことをやりたかっただろうに、何でこんなに早くいってしまったのだろう。
そして、私は何で生きているのだろう?
夫がいなくなってから5年の間、ずっと同じことを考えて悶々としていた。
私だけが生き残っているのは何か意味があるのだろうか?何かしなければならないのだろうか?と考え、色々なことに挑戦し、でも上手くいかずにもがき続けていた。
生きる意味を見出し、心の拠り所が欲しかったのかもしれない。
あるいは、自分だけが不幸な目に遭わされた気がして、何かを成し遂げて、幸せそうな周囲を見返してやりたいという気持ちもあったかもしれない。
でも、そもそも、人間をはじめ全ての生物は、何かの目的のために生きてるのではなくて、生きることそのものが目的なんだよな。
"生きるのに意味なんかいらんねん!"
(byバッテリィズ)
そう考えると、なんか、こうして生きていられているのだから、もうそれだけでいいじゃん、って思えてきた。
そして、若くもないが老齢ともいえない歳で、まだ気力も体力もあるうちに、やりたいことをやっておいた方がいい気がしている。
もう少し若かったら、長い自分の人生を考えて、もっと仕事を頑張ったり色々な社会的責任を負わなければならなかったかもしれない。
もう少し年齢を重ねていたら、思うように動ける気力や体力がなくなっていたかもしれない。