今日は米本城址の散策に。

城があったことを、現在にも伝える城橋を渡る。
この名前の由来を知ったのは、ごくごく最近のこと。
今日も、地名て大事だなと思った。
やたらに、地名を変えてしまうことは、歴史を断絶させてしまう。

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左正面に見えるのが、米本城址。

城址に行く前に、城主村上綱清の墓のある長福寺へ。
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六地蔵のお出迎え。
鐘撞堂もある。
広くて立派なお寺。
境内の植栽も整っている。
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本堂から鐘撞堂を見下ろす。
黄色く見えるのは田んぼ。
かつては湖面。

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村上綱清の墓にお参りをする。

境内には可愛い石仏。
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寺を出て城址方面に。
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この辺りが昭和40年代に土砂として切り取られてしまったところだろう。
一の曲輪があったところ。
現在は民家に。

この南は、かつては印旛沼(阿蘇沼かな)の湖面。
一の曲輪から見えた景色だったろう。
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坂道を北方に進むと竹垣。
(写真撮り忘れ)
なんの標識もなく、民家か畑に続きそうな道を100m以上進む。

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米本城址の表示があった。

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城址の中は、こんな感じで、
まあ、つわものどもの夢の跡かしら。
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咳の神様、あんば様
落城の時老兵がここで咳をしたために、見つかって殺されてしまったという。
それから、ここにお茶を供えると咳が止まるという言い伝えができたようだ。
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ぶら下がっている竹筒はお茶を供えたもの。
今ではお参りする人も殆どいないようだ。
竹筒は古いものばかりだった。

この脇に、一の堀、二の堀とある。
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写真ではあまり高低差が感じられないが結構深い。

四の曲輪辺りには、手製のテーブルとベンチが設置されていたが、何かここで催されるのだろうか。
城址内は、人っ子一人いなかった。

この一帯は、全て民有地。加茂姓の住居が並ぶ。
加茂姓は村上氏の家臣だったと言う。
村上氏は家臣とともに自害したと言い伝えられているが、落城後家臣であっても城近くに住まうことを許されたと言うのはどう言うことなのかしら。謎?

ふと見ると、ゴルフの練習場。
ここは、以前よく通っていた。
なんと、このゴルフ練習場は殆ど米本城址というか隣り合わせ。
夏の夜は、レッスン中にクワガタがよく飛んできて、先生が息子のお土産にしなさいと言って捕まえてくれた。
25年位前のこと。
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あの頃は歴史には全く興味を持っていなかった。
もちろん、米本城の存在も知らなかった。

ゴルフのレッスンに通う時に近道なので、この道を車で夜よく通った。真っ暗闇だったし、なぜか怖かった。なんか不気味さを感じて。
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それもそのはず。落城の時、近くの七百餘神社へ大勢の兵士とともに村上氏も逃げそこで自害したと言う。この道も、彼等が通らない訳がない。逃げる兵士がここで討たれることもあったであろう。あの頃感じた妙な怖れて、それだったのかな。
なんて考えながら、木漏れ日の坂道を下り、一の曲輪前辺りに戻った。
昼間のこの道は、全く怖さも、なんの気配も感じなかったが。

フィールドワークをしていると、戦国の武将たちが何を考えて砦や城を築いたのかわかる気がする。機会を見つけて、この辺りの城址をもう少し巡ってみようと思う。