三内丸山遺跡が話題になったのは20年くらい前だろうか?
小学生の長女を連れて当時の新宿三越のイベント会場に行った記憶がある。
6本の掘っ立て柱が話題を呼んでいたような気がする。
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今日は、雨、時々土砂降りの中、前から訪れたかった三内丸山遺跡に。
新幹線新青森の駅から、バスで10分程のところなので、アクセスは良い。

ボランティアガイドの見学ツアーに参加。
ここは、入場無料。
ガイドも無料。
青森の三内丸山遺跡に対する心意気を感じる。

6本の掘っ立て柱は象徴だが、ここ、現地に来て一番驚いたのは、
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アッピア街道を思い起こす、遺跡内に広がるこの広い道路。縄文時代のムラにこんな道路を敷設していたなんて。さらに、古代ローマと同じく、道路に沿ってお墓。この道路の芝生の部分は、大きなお墓だという。ガイドの方は断定はしないが、多分普通の人ではない立派な墓が道路に沿っていくつか並ぶ。
ここには最大500人くらいが生活していたと考えられる。
当時は平均気温が現在より2度は高かったという。現在の仙台くらいの気候。この人口を長きにわたって維持できる立地だったようだ。
交易も行われていたようで、糸魚川辺りに産出するヒスイや原産地長野辺りの黒曜石も出土している。
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その頃の個人住宅。
復元はあくまでも推測に基づいての復元。屋根の葺き方も、木の皮、茅、土と三種類のものが展示されているが、土で葺いたものが最近では有力な説とのこと。
小屋の中にも入ることができる。
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高床式倉庫、ここでは、倉庫としてではなく祭祀に関係するのではないかと考えられているようだ。(ここでは稲作は行われてない)

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こちらは大きな建屋の内部。(外観の写真を撮り忘れた)
冬のあいだは、個人住宅ではなく、この大きな建物で家族単位ではなく暮らしていたのではないかと考えられている。

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銀色の屋根の下は、発掘された物がそのまま保存されている。ここは、ゴミ捨て場だったような盛り土のところ。土器片などが層をなしている。

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子どもの墓、円筒型の土器に遺体は入っていたという。それも、新品ではなく、使用していたものの、そこをぬいて。

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現在の発掘現場。

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6本の掘っ立て柱のあと。黒いのは掘っ立て柱の残存の様子。(ただし、これはレプリカ)

ツアーの最後は掘っ立て柱だったが、大雨となってきたため、大きな建屋の中で話を聞く。

この6本の巨大な栗の木の柱は、どこから持ってきたのかを質問。
なんと原産地ロシア。
かつてはこの辺りで手に入ったのだろうが、現在の日本にはないのだろう。
ちなみに、この遺跡の建物の材木は全て栗の木である。

大雨となってしまったが、縄文時代の遺跡を巡る興味深いツアーとなった。
20年ほど前、私は古代史に興味を持ち、それらの本を読み漁った。あの頃は、子育て真っ只中で今のように、平気で何泊も家を空けることはできなかった。せいぜい、1時間以内に行ける博物館を訪れる程度。三内丸山遺跡もそんな時に出会った。まだ、新青森までも新幹線が延伸してなかった気がする。その頃はとても現場に行きたかった。
しかし、熱しやすく冷めやすい私は、その後次々に興味関心の対象を放浪し、三内丸山遺跡のこともすっかり忘れていた。
今回は、かつての縄文熱を少しだけ彷彿できたかも。