オークランドのシンボル ダイバーシティのツリー
オークランド カリフォルニア。 1981年から今日まで40年間のわが街。もっともその内15年間は主として日本に住んだので、年に何度か帰って逗留する街だった。パンデミックで昨年から帰れず、ひさしぶりに逗留している。この街の魅力を語りたい。
60年代、オークランドはブラックパンサーの活動の中心地。
子どもたちの朝食提供運動を展開した頃に生まれたダンス、ボーガルーの映像。
(この動画をブログにアップできないので、私のFBで見てください。)
そもそもどこにあるの? とよく聞かれる。60年代ヒッピー文化発祥の地でかつゲイの天国サンフランシスコと、学生運動のメッカのバークレーに挟まれたオークランドは日本では知られていない。
しばらく住んでいたメキシコからアメリカに1978年に移った私は、サンフランシスコのゲイ文化の中心キャストロ地区に住み始めた。その年、ゲイの市会議員ハービー・ミルクとSF市長が、市庁舎ないで、保守派の市会議員に射殺される事件が起きた。今やLGBTQ運動の伝説的ヒーローであるハービー・ミルクの事務所は私のアパートのすぐ近くにあった。アパートの周りで連日繰り広げられる悲しみと怒りの抗議デモの真っ只中に放り込まれた日々だった。
大学院時代は、カリフォルニア大学のあるバークレーに住んで、カウンターカルチャーの影響下に今でいうマインドフルネス、すなわち瞑想、ヨーガの修行の中でパートナーに出会った。同時に世界最大にして最新の核兵器設計製造研究所を抱えるカリフォルニア大学当局ビル前で毎週水曜日の抗議デモを続けていた。
その後子供が生まれ、家を構えようにも、サンフランシスコもバークレーも高すぎたことがオークランドに家を買った理由だった。
しかし「住めば都」とはよく言ったものだ。住み始めてすぐにこの街が大好きになった。
下の写真は、オークランドの丘から、海の向こうにサンフランシスコのダウンタウンが霞んで見える。
「えっ、あの犯罪の多い街に?」「黒人の街でしょ」というオークランドへの偏見はアメリカ人一般では根強い。
オークランドは、アメリカで人種や文化の多様性度が最も高い都市の一つだ。白人、アフリカ系、ラテン系、アジア系、アメリカインディアン、今ではインド、中東系が急増している。
昨年の警察官によるジョージ・フロイド絞殺事件をきっかけに展開したBlack Lives Matterの大デモストレーションの後、オークランドのダウンタウンは壁画の街となった。
ダウンタウンの直ぐ近くにある大きな湖の畔に私が8年間勤めたカリフォルニア大学全州レベルの中央オフィスビルがあった。このビルの6階の右端が私の部屋だった。
ランチタイムに湖畔を一周散歩するとちょうど1時間だった。
その直ぐ近くに中華街がある。冬になると中華街の地下にあったまるで水族館のような鮮魚店で生きた蟹を買って子供たちと料理した。40年後の先日は、中華街の隣のコリアタウンで生きた蟹を買って帰って、孫と一緒に料理した。
オークランドは、日本の我が街、高槻市より10万人多い人口43万3千人。 無料のPCR検査場が10カ所以上ある。予約なし、待ち時間なしのドライブバイで検査キットを受け取り、その場で提出。2〜3日後にメールで結果が届く。地方自治体がNPOに委託して運営している。私は3週間の滞在中に3回テストをした。全て陰性だった。娘家族は週に一度は検査に行っているようだ。日本では今も、症状のない人は、医療機関に高額の検査料を払わないとPCR検査ができないのは、どういうことなのだろう。