かなり長いこと放置してしまいました。

さきほど、FBで触れた、5年前の作品展で発表したテキストがひょこっとでてきたので、なんとなくこちらに貼り付けてみることにしました( ;∀;)

 

講談師・神田菫花さんにはなしていただいたものです!長文お許しを!

 

 

「ごめんくださいませ」

 唐突なことではございますが「めん」という響きの含まれる言葉は、其処彼処にございます。本日のこの会のタイトルにもじりまして、「めん」の二文字を取り掛かりに、あちらこちらに飛び火させつつ、太古の昔、はたまた文化が大いに花開いた江戸時代などのささやかな逸話をそそそっと交えつつ、少々お話をして参りたいと存じます。どうぞお付き合いのほど、よろしくお願いいたします! 


 さて。わたくしたち日本人は、「ごめーん!」と何かにつけてすぐに謝うきらいがございます。お店に入る時ですら「すみませーん」という具合に声を掛けますが、よくよく考えますと、別段悪いことをしてもないのに、何故先駆けて謝ってしまうのかと、不思議に思う訳であります。
海の向こうの国の皆さまは、それはそれは最後の最後まで謝らない方も少なくないと伺いますが、わたくしたち、かようなまでに謝り癖がついたのは如何なる理由によるものなのでしょうか。
島国であり、その国土の面積たるや、地球に占める割合はごく僅かでございます。且つ単一民族の日本において、自ずと生まれたであろう色濃いムラ意識、これは随分と昔々から形成されていたやに思われます。


 Aさまが種を蒔けばBさまも種を蒔き、Aさまが田を耕せばBさまもこれに追随、というように、暮らしの様々な場面で、周りの方々と行動パターンやペースも似通って参ります。 天下御の後ろ盾があって、自由な振る舞いを許される場合などを除き、集団と異なる方に突っ走りますれば、たちまち白眼視され、所謂村八分のような扱いをまぬかれません。コミュニティの統制を保持するため、勧善懲悪を礎として、悪事を働き、その後景色が悪くなれば、天罰覿!と口々に責め苦を与え、長きに渡り執拗に引きずり、禊が済んでもすっかり無罪放!とはさせぬ、容赦のないところがございます。


 この空気感に身を置いた上、揉め事起こすときわめて、めんどうくさい!
よって、なるべく波風立てず、協調してゆこうという気運に支配されがちであります。
旧石器時代あたりから国の成り立ちを振り返りましても、人の暮らしは、ほぼ農耕を核に進められて参りましたし、信仰に関しても八百万の神を拠り所とするためか、基本的には争いを好まず、穏便にいこうという空気感に包まれております。
作物を栽培し、収穫するその暮らしは絶え間ない忍耐を必要とします。
我慢を重ねるうち、そうしていることで到達する境地に、得も言われぬ美意識を見出していくような側が生まれたのかもしれません。どこまで耐えられるかやってみよーーーっ!という我慢比べが、いつしか骨の髄まで浸透していったに違いありません。


 そののちの戦時下、軍国主義を国民が甘んじて受け入れていたことも、こうした蓄積に依るところが認められるのではないでしょうか。
異国から伝来した仏教の教義は「苦しみの輪廻から解脱することを目指す」とされますが、日々苦労を重ねてきた日本の多くの人々が、この教えに光明を探そうとしたことにも頷けるところがございます。


 他方、ここぞという時に体を保とうというメンタリティは多くの人に認められます。
この感覚によって、時に見栄張り人間が作り出されましょう。
時代が下って、お侍さんが活躍するする頃になりますと、
「武士は食わねど高楊枝」などという言葉が生まれて参りました。見栄張りの気質をずばり表した好例ではないでしょうか。


 戦国時代も落ち着いて、文化が百花繚乱の春を呼んだ時代、江戸の粋と呼び称されるものは、まさに見栄の美学ともいうべきセンスであります。
「宵越しの銭は持たねぇ」と、今あるお金を豪快に使い果たすスタイルが、たいそう格好のよろしいものとされたりしました。 火事の多かった時代ゆえ、突如自らの家が丸焼けになったと知って顔蒼白になった御仁もあったのではないでしょうか?
 参勤交代制度により、単身の男性が山ほど集まっていた江戸の町、そしてその世の中を背負うメンバーである彼らが、かつてない独特な美学を形成してゆきました。
昨今すっかり市民権を得た言い回しに「おひとり様」なるものがございますが、江戸時代の人々の暮らしには、このおひとり様にピタリと寄り添う、あらゆる仕組みが機能していたようでございます。
 とかくせっかちで気の短い彼らが、「早くて安くてうまい」との要件を満たす食べ物ということで好んだのが「そば」や「寿司」であります。 路には「担い屋台」やら「ぼてふり」がひしめき合っておりました。それらが次第に発展いたしまして、ついぞ幕末のころには、江戸市中にはなんと3,760軒余りも蕎麦屋があり、すし屋に至ってはその倍ほどもあったというので驚きでございます!
 彼らは、ちょいとお店に立ち寄って、ほんの一貫か二貫握り寿司をつまんだと思ったら、もうお愛想なんていうのが日常でありました。
 そばにしましても状況はほとんど似たようなものでして、勢いよく暖簾をくぐってきて「もり一枚っ!急いどくれっ!」などと注文し、ずずずずーーーっと三口半ほどで完食するや、「勘定はここに置いとくぜいっ」と言って、ぴゃっと店を飛び出てゆくような調子でありました。
何しろゆっくりゆったりしているなんてえことが、どうにも性に合わなかったようです。
 現代の日本を見渡しましても、都会はとかく時間の流れが目まぐるしく、しかもそれがどんどん加速していっているやに感じら、思わず「ジャスト ア モーメント」と呟きたくもなりますが、これも江戸人の感覚の名残なのでございましょうか・・・。


 はたまた、日本人の性質は、西欧の方々と比してみますと、現代に至ってもなお、かなり恥ずかしがり屋さんが多いようでございます。識のない方にはえらいつれない態度をしてしまったり、はたまたお連れ合いなり、恋人なりに、
「ねぇ?わたしのこと好き?」
と尋ねられれば
「そんなこと、俺を見てればわかるだろ?」
心を尽くして拵えたものを黙々とただ食べるお相手を見かねて
「ねぇ、わたしのつくったご飯、美味しい?」
と聞きますと
「うるせぇ、黙って食べてれば、それはそこそこうまいってことよ!」
とまあ、こんなんでは何ともつれないことでございますねえ。
こんな具合で、気持ち詳らかにするため、と向かって言葉に乗せて相手に伝えることを得手としている人は、そう多くないようで。
 阿吽の呼吸なんていう言葉を笠に着て、言わずもがなと逃げ仰せようとして許されたのは今や昔、もはや現代の日本におきましては、そうした因習を反教師とせざるを得ない雰囲気も高まり、白黒はっきりさせよ!と迫る場も増え参りました。


 恋愛にちなむ気持ちの吐露に関しまして、こればかりは国民性というよりは個人差も大きいのでございましょうけれど、欧米の、ことにイタリアあたりの方々など、口が開けば、ああ、君は美しい、どうしてそんなに綺麗なんだ!ぼくは君に夢中だ、ああ、僕を1人にしないでおくれと、こんな調子で、お相手に連綿と熱い思いの丈を述べるのです。


 また、さきほど述べましたムラ意識にもかかわりますが、周囲との調和を優先しますゆえ、どうしても個の部分を殺して過ごすということになります。
 本音と建前なる意識は、こうした精神構造から生み出されたもので、私たちは平素、他者とまみえます時には、何かしらの仮を大なり小なりつけていようかと思います。水鳥が水下で懸命に足を動かし泳ぐさまに似て、人の目のないところで一生懸命もがいているのでございます。
日本の人々が時に見せるアルカイックスマイルの裏では、ほかならず本音が建前の壁を打ち破らんと少なからず葛藤が起きていることもございましょう。


 それだけに、この国の人々の独特な思考や表情を理解し得ない諸外国の方々が、この曖昧な微笑に惑わされ、うっかり遠慮のない言動に転じ、結果大きな軋轢を生むことさえございます。まさに綿裏包針というべき心境が隠されているやも知れぬのです。
それは昨今の「空気を読む」というスキルを全ての人に要求する社会の様相にもつながりましょう。 都合、心をカチンコチンにさせ、とうとう立ち行かなくなって、メンタルクリニックのドアを叩くことになる場合もままございましょう。 心のメンテナンスを怠りなく行うことが、肝要であると思われます。
 しかしながら、こうした一連の特性は、他者の気持ちを慮り、厚い人情を温めることに一躍買ったりも致します。
 凶悪な犯罪の被害者となった人々の多くは、ただでさえ自らにふりかかった衝撃に打ちひしがれているでございましょうに、その口から発される言葉は、
「二度と、このような悲劇が繰り返されないよう、そして同じく悲しい思いをする人が出ないよう切に願いたい」といった趣旨であることが多く、これは自己の利益をまずはさておいて、相手を慮り、労わる気持ちを大切にしてきたことで生まれる発想であります。
或いは天災等の有事で、人々の生活が大きく困窮した際も、諸外国の方々が驚嘆するほどに、整然とした秩序と、礼節を保つことができるのが、日本の人々でございます。


 また、心のひだの一つ一つに入り込むような、きめ細かい感覚を持ち合わせている方々が多いようにも感じられます。わたくしたちが操る言語、日本語を改めて見渡しましても、細かな表現をするに足るに相応しい多様な特徴を認めることができます。同義語の豊富さには目を見張ります。
 具体的な例として、雨に関する言葉を取り上げてみますれば、その種類や「大雨」「片時雨」「寒雨」「霧雨」「ゲリラ豪雨」「豪雨」「小雨」「小糠雨」「地雨」「凍雨」「時雨」「驟雨」「積雨」「滝落とし」「通り雨」「天気雨」「長雨」「俄雨」「氷雨」「村雨」「村時雨」「夕立」「雪時雨」「横時雨」「雷雨」きっとまだまだありましょう。
その降り方を表すオノマトペにも「ごうごう」「こんこん」「ざあざあ」「ざんざん」「しとしと」「しょぼしょぼ」「ばらばら「ぱらぱら」「ぽつぽつ」「ぽつりぽつり」とありますし、季節絡みの「秋雨」「桜雨」「山茶花梅雨」「菜種梅雨」、又、その様を表すものに「お湿り」「催花雨」「篠突く雨」、雨にちなんだ事柄に対しても「雨夜の品定め」「狐の嫁入り」「一雨一度」など、その趣も多彩な多くの言い回しがございます。


 人称を表す言葉や、敬語の表現がこれほどまでにたくさん存在する言語は、広い世界に数多ある言語と照らし合わせてみましても、ごく稀有な例でありましょう。


 わたくしたちの現在の暮らしに寄り添う実例も一つ。今時パン屋さんに入り、あ!ベーカリーとかパティスリーなどという洒落たところなら尚のことでしょうが、トレーに、チョココロネやピザ、アップルパイやあんぱんなど、形状や表の状態の異なる複数のパンを乗せ、お会計をとレジに並んだとします。

 店員の可愛らしいお姉さんは、実に手際よく良く鮮やかな手つきで、あんぱんやチョココロネなどは薄いビニールの中に、表がジャムに覆われたようなアップルパイ、または溶けたチーズが露出しているようなピザには、それらのぺたっとした表が、他のものと張り付いたりしないよう、透明のプラスチックケースに入れてくださるのです。
その上、「こちらでお召し上がりですか?」「お持ち帰り用ですか?」「フォークとお手拭きはおつけしますか?」「いくつお付けしますか?」「お持ち帰りの時間はどのくらいですか?」「保冷剤はお要り用ですか?」「お渡し用の袋をお付けしますか?」「当店のポイントカードはお持ちですか」「スタンプカードのシールはお集めですか?」百貨店クラスで雨の日ならば「雨よけカバーはおつけしますか?」などなどなどと、矢継ぎ早に、且つそれはそれは微に入り細に入りお尋ねくださる。


 同じ国から出た、無駄を排除し、究極の簡素さに美を見出す、侘び寂びの感覚とは、ことごとく対極にあるようにも思います。が、ひとえに、気遣いや側を、美しく整えることを徹底した形ではないかと思われます。 それは大変綿密なる包装で、別の角度からみれば、過剰な資材の消費とも言えますが、外国の街角で同様な買い物をしたならば、茶色いガサガサしたような紙袋へ、適当にボンっ!と投げ入れてくれるのが相場でありまして、日本のそれが、この上なくご丁寧であることは間違いありません。
 

 定めてこれは、側に拘る価値観と多少なりとも関係がありましょう。
平成25年にユネスコ無形文化遺産に登録された、我が日本の和食は、その完成度の高い味わいや、健康的でバランスが取れている点もさることながら、美しさというツボ、すなわち側、つまり見た目を重要視するものであり、生来日本人が持つ、繊細な感覚の目躍如、といったところでございます。 食における、食いとも表せましょう。


 拵える品々の彩や造形に加え、それらを支える器や、食卓を取り巻く全ての設えに至るまで、細かに心を砕き、寸分の隙もない計算され尽くした美学を、あくまで追究してゆくのであります。
取りも直さず、日本に住むひとは古来から今日に至るまで、あらゆる場に即して、泣いたり笑ったり百相を呈しながらも、人と手と手を携え、生きてきているのでございます。


 長い話をお聞きくださいましてありがとうございます。このお話の中に「めん」が何度出てきましたでしょうか?プリーズ リメンバー! あちらこちらに「めん」がでてきて文字通り「めん」という下りは八六臂の大活躍!どんぴしゃりと言い当ててくださるような方がいらっしゃいましたら、それはわたくしの話を一語漏らさず聞いてくださった証、わたくし「喜色満」となること請け合いでございます! ごめんくださいませ!(ちなみに「めん」の登場回数は41回!)