耳の奥深くから、さぁーっという微かな音が聞こえる。それが朝の霧雨だと気づくには、ベッドに寝転んだ秋葉には少し時間がかかった。すらりと長い足には柔軟剤の香りがふんわりとした白い柔らかなリネンが絡まっている。胸の先が少し擦れて痛いのが、昨夜の裕をぼんやりと思い出させた。

 

隣で子どものようにすやすやと深く寝息を立てる裕を、起こさないようにそっと抱きしめる。寝ぐせに似た癖のある裕の髪は、秋葉の腰まで届くロングヘアーと同じ香りがした。シャンプーのボトルには、トロピカルフローラルの香りと書いてあるけれど、細かい雨の今朝は、トロピカルとは程遠い、湿った…そう、朝顔の香りがした。

 

幸せだ。

今抱きしめていること、昨夜酔っ払った裕がいつも通り突然秋葉の部屋に来て、そのまま強引にセックスになだれ込んでしまったことも、自分と同じ香りが裕から香ること、今のすべてが、秋葉にとって、幸せ以上でも以下でも、どんな言葉でもいい表せない。

まだ寝ている裕の乾いた口唇にそっとキスをする。昨夜、秋葉の身体中を舐めまわした口唇は、朝になってすっかり乾いていた。

裕が隣で無防備に寝ているこの瞬間が、秋葉にとっていちばん愛しい。外の朝霧のカーテンは、まるで世界から自分たちふたりだけを切りとっているようだ。こうした錯覚は、秋葉の裕に対する愛情を十分に満足させた。

 

「傘がなければいいのに…」

残念ながら、ピンク地のかわいらしい模様の秋葉の傘と、コンビニで買ったのだろう、裕のビニ傘はしっかり何本も玄関にスタンバイしていた。

まだうとうとしていたら、ベッドサイドのカーテンから、曇りがかったくすんだ朝日が差し込んできた。

秋葉はまだぼんやりした頭で、今日は何曜日か思い起こそうとした。裕を起こさないように手をあちこち伸ばしてスマホを探す。秋葉はいつも枕元の小さなサイドテーブルに置いておくのだが、昨夜は裕があまりに激しく、スマホなど気にせずそのまま泥のように眠ってしまったのだ。一限は8時半なので、そろそろ出かける支度をしないと遅刻になる。

秋葉のマンションは、大学のすぐ近くにある。歩いても5分、多くの学生が自転車でせいぜい10分ほどのところに一人暮らしをしている。多摩の外れにある鬱蒼とした森に囲まれた自然豊かなキャンパスは、太平洋戦争のときに都心の真ん中から疎開してきたそうだ。その名残で、講義の始まりと終わりを知らせるのは、現代的なチャイムではなく、カラーンコロンと重い鐘の音がこんな現代になっても使われているのだ。その鐘が鳴ると、寝坊した学生が家から飛び起きて授業にやってくる。

秋葉のスマホは枕とベッドヘッドの間に挟まれていた。電源ボタンを押すと、火曜日と表示された。時間を見るとまだ7時半だった。火曜日は二限から、一般教養の心理学の講義がある日だ。

秋葉も裕もとっている講義なので、秋葉が出て裕の分も代弁してあとでノートを見せてあげるのが習慣になっている。ふたりが通っている大学は全校でも5000人と、とても人数が少ない。途中から教室に入ると教授にバレバレなので、裕は自分が出る気がない講義の代弁とテスト前のノートのコピーを秋葉に頼んでいたのだ。

 

スマホのいつになく眩しい画面を、秋葉は片目で確認した。待ち受け画面は、秋葉が裕の不意をついてキスをした瞬間だ。これを撮ったとき、裕は仕方ないな、と言いたげに少し肩をすくめた。

秋葉は同じようにゴソゴソとベッドサイドの隙間に手を差し入れた。すると案の定、裕のスマホも出てきた。電源ボタンを慎重に、ゆっくりと押してみる。

裕の待ち受けは、初めてふたりで大学を離れてデートをした帰りに、裕に「ツーショット撮ろうよ」と言われて撮った、まだちょっと恥ずかしいふたりの、可愛げがある写真だ。それをまだ変えていないのを確認するたび、秋葉はこうして胸をなでおろしていた。でも秋葉が裕のスマホを見るのはそこまでで、中身を見ようとは一切しなかった。

 

知らなくていいことはそのままでいい。

裕のスマホ画面が変わっていないこと、今秋葉の横で無防備に眠り込んでいること。

この事実だけでいい。