み旨、摂理? | ペッカプのブログ

ペッカプのブログ

ブログの説明を入力します。

教会で摂理、摂理と上から号令がかかり、何十年献金や販売がありました。しかしそれで傷ついて辞めた人や経済も破綻して家族に迷惑をかけた人がたくさんでてきました。それをやっていたら、完成するとか氏族が導かれるとか?摂理の犠牲って何のことですか?今日あるブログに詳しく説明がありました。

み旨は創造目的だから、家庭が完成する事、四位基台の完成です。聖書のなかにもあります。生めよ、ふえよ、地に満ちよ、よろずのものを治めよ、これは人間の五パーセントの責任です。摂理は神様の責任だから、神様の九十五パーセントです。それを一緒にしてみんなに指図していた教会の責任は大きいでしょう。極端な話しですが、そのために家庭地獄ができてしまいました。


なるほど何十年教会に通って、摂理をやりましたが、自分の家庭は何も完成していません。もちろん氏族も同じです。人と向き合ってないのだから、愛の成長もくそもありませんでした。それは、真の家庭にも言えたのかもしれません。

新しい出発をするなら、そこを悔い改めていかなければ何十年たっても進歩なしです。み旨と摂理は違いますと、あるブログにはっきりと書いてありました。今まで誰も気がつかないで、何も言ってくれなかったのが不思議です。世間での常識が、宗教の世界では非常識になっていますから、現実の世界では全く通用するどころか、相手にされませんね。評判が悪いどころか悪の宗教とまで思われています。
教会生活はよくできても社会生活は良くできないという人もいれば、社会生活はよくできても教会生活は良くできないと言う人もいます。このような点から見ると、社会生活はよくできても教会生活は良くできない人は実を結ぶ為の要因と、その内容がありません。 教会生活は良くできても社会生活はよくできない人と、社会生活はよくできても教会生活がよくできない人とでは、どちらの方がよいかと言うと、教会生活が良くできる人のほうがよいのです。結実の要因を持った人は、明日の希望を持って動いていく事ができます。結実の要因を持ってない人は結実と関係を結ぶことができないのです。


皆さんは血統を通して神様の息子、娘であることを証し、心理をを通して神様の息子、娘であることを証さ、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができなければ、教会にきて信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。(天聖経礼節と儀式P999)
NEC_0120.jpg
NEC_0105.jpg