「海を飛ぶ夢」 | YURIKAの囁き

「海を飛ぶ夢」

 ’04 スペイン映画 125分


 実在したラモン・サンペドロ氏の手記を映画化。ラモンは引潮だったにも関わらず浅瀬に飛びこんだことで頭を強打し脊髄を損傷。これにより、四肢が麻痺してしまう。25歳の時だった。それから26年間、家族の支えにより生き長らえてきたけれど、尊厳死を考えるようになり、尊厳死を法的に認めよと訴えている団体の協力と、ラモンの尊厳死を支持する弁護士らによって、計画は進むようにみられた。しかし、訴えは却下。一時は、ラモンは女性弁護士と密かにある計画も立てたが、それも頓挫してしまう。ラモンは、自分のことを最も愛してくれた女性に全てを託そうとする。

 
 尊厳死という重く沈鬱なテーマは、宗教的な意味合いにおいても深い洞察が必要だと思うけれど、ラモンを演じた俳優ハビエル・バルデムの何とも暖かく穏和そうな表情によって、障害者というイメージと、このストーリーの重さを根底から覆すものを感じた。それと同時に、このラモンの性格的な部分で、常に周囲に気を使うわけでもなく、会話もジョークを交えながら、時にユーモアのセンスに長けていたりと、暗くなりがちなテーマとは裏腹に、どこか爽やかな印象も受ける。アメナバール監督は、テーマの持つ比重よりも、ラモンという青年が如何に家族や友人に支えられ、これまで幸福に生きてきたかを客観的に描いていると言えます。
 しかし、鑑賞者は、果たして監督の意図したように観るものか。この映画を観て、感動に震える人も多くいると思うけれど、映画の観方は千差万別、色んな観方があるものです。それは、鑑賞者の歩んできた生き方や、死に対する考え方によって様々なものです。
 この映画は、予想に反して、とても清々しい展開ではあるけれど、正直言ってこういう映画は嫌いです。こういうことを書くと「おまえは鬼か」とか言われそうだけど、死ぬということを選択して以降、そのために尽力していくという行為自体、かわいそうとか哀れむとかいう次元のものではなく、お互いが幸福になるための選択としか見えないからです。この家族たちの本音はどこにあるんだろうか。寝たきりで何も出来ないラモンの周りは、いつも人々が訪れる。ただ寝たきりの男ならば、家族以外の人々は訪れることはないでしょう。ラモンが尊厳死を訴えたから人々が集うようになった。死を選ぶことによって、身体から解放され、本当の意味で自由を勝ち得ると思っているラモン。彼の切なる想いは、後半に一気に加速していく。
 しかし、声を大にして言いたいのは、誰のお陰でこの世に生を受け、誰のお陰でここまで生きてこられたのか。誰かのために生きていってもいいのではないか。一番共感できるのは、ラモンの兄です。最後の最後まで、ラモンの死に否定的な立場を崩さなかった兄。家族の真の想いは、この兄ひとりに凝縮されていると言っていいと思う。この兄は別として、他の家族の真意がいまひとつ理解に苦しい。だけれど、別の角度から見ると、ラモンを間近で介護していたのは、他ならぬ義理の姉であって、直接的な介護はしていなくても、直結な血の繋がりのある兄とは、また、ラモンの死への考え方は違ってくるのだろうか。
 兄の願いを置き去りにして死を選ぶラモン。この映画を観終わった今でも、自分的に結論を出せないでいます。清々しさのあるこの映画の中の重いテーマ。なんとも遣る瀬無いこの映画。映画賞もたくさん摂っているし、スピルバーグなんかは手放しで誉めてるけれど、ラモンのあの爽やか過ぎる笑顔を思い出すと痛々しさすら感じます。