「セックスと嘘とビデオテープ」 | YURIKAの囁き

「セックスと嘘とビデオテープ」

 ’89年、アメリカ映画、100分


’89年のカンヌ映画祭で、審査委員長だったヴィム・ベンダースが「映画の未来に大きな信頼をもたらした」と絶賛し、その年のグランプリを獲得したこの作品は、一方では、辛口のスパイク・リーにして「審査員は全員人種差別主義者だ」という言葉をも導き出しました。この映画の感想記事などを色々と検索してみても、そこには【愛の不毛時代の寓話】だとか、【人間が持ち得た愛の勝利】だとかいうように、捉えどころ無く語られているのは少し寂しく感じます。

 もしこの作品が、何かの不毛を描いているとするならば、それは個人と個人の間にある【距離の不毛】ではないかと思う。確かにその【距離】を繋ぐものこそが人間の愛なのだとも言えなくもないけれど、【愛】という抽象的な言葉を出した瞬間、【距離】という具体的な存在が消えてしまう。ソダーバーグ監督は、具体的にその距離を描かないことだけをしていると言えないでしょうか。


 映画の中で舞台となるのは、5ヶ所。妻と夫の家、夫の事務所、妻の妹の家、妹の働いているバー、夫の友人の家。彼らはその5ヶ所を行ったり来たりするのだけれど、ソダーバーグ監督は決して彼らの移動する姿を写さない。せいぜい車に乗るところ、車から降りるところくらいです。だから場面は場所から場所へと無媒体的に移っていきます。人と人とは、ビデオテープ、電話といった、やはり距離を欠いた通信機器だけで繋がっています。車に乗り、途方も無い距離を移動し、その長さによって人間のコミュニケーションを描いてきたヴェンダース監督が、この映画の中に未来を見たのも、あくまでも目に見える具体的な形で、ソダーバーグ監督が距離の不在を描いたことそのものにあったのではないかと思います。