「めぐりあう時間たち」 | YURIKAの囁き

「めぐりあう時間たち」


【ストーリー】

1923年英国リッチモンド。神経衰弱を患いながら新作の執筆活動中の女流作家ヴァージニア・ウルフ。姉とその子供たちを家に招くけれど、新作「ダロウェイ夫人」の事で頭はいっぱい。

1951年米国ロサンゼルス。夫の誕生日のために幼い息子と共にケーキを作る妊娠中のローラ。理想の妻、理想の母を表向きは演じているが、胸の内は絶望感に胸が張り裂けそうでいる。

2001年米国ニューヨーク。崇高な詩人リチャードの文学賞受賞パーティーを計画しているクラリッサ。リチャードはエイズに侵され、余命幾ばくもない。若い頃から愛していたクラリッサは、彼との思い出に浸る。

この三人の女性たちの一日の始まりから終わりまでを、同時進行で描きながら、異なる三つのストーリーが小説「ダロウェイ夫人」への伏線となり導かれ、そして、一日の終わりへと流れていく。



この映画は重いと聞いていたので、劇場鑑賞はパス(='m') ププッ で、レンタルになっても観る気力がなくてスルーしてたんだけど、ウチの母親の強い勧め?によって、最近ようやく観ることができました~

んで、「時間軸が複雑に絡み合っていて理解に苦しむ」というような噂もあったので、とにかく、思考力全開で鑑賞しますた(´ー‘*) フッ この映画の完成度の高さは素晴らしいけれど、誰にでも受けいけられるかと言うと、それはない。でも、理解できないからアタマ悪~なのではなく、単純に、この映画が合わないだけなのだと思う。ウチぐらいの歳の若い人だと、まず感情移入できないし、実際、ウチは理解し難い部分のテンコモリだったし。この映画の良悪を決めるのは、映画そのもののクオリティではなく、観る側の感性に託すという部分にある。これだけの質の高い作品だったにも関わらず、アカデミー賞は何も取れてないのは、それゆえなのでしょうか?

この映画に同性愛的シークエンスを垣間見るという人もいるみたいだけど、そういうありきたりの表層レベルを貼ってしまうことはウチとしては避けたい。その理由は、ただ単に女性同士の恋愛と言う単純な解りやすい悩みにしてしまっては薄すぎるから。あるいは、同性愛という強い感情ではなく、もっと淡い、漠然とした不安や不満が彼女たちに葛藤を与えていると思いたい。

この物語は違う時代の話がまさに絡み合って構成されている。そのために三人それぞれが同格的な主人公だと捉えることができるけれど、実際はクラリッサの「救済」が物語の軸で、ヴァージニアとローラは救済を導く役割だ。ヴァージニアが描いた(彼女自身では得られることがなかった)救済が、ローラの「生きるためには仕方がなかった」「後悔してどうなるというの」という最後の台詞を導き、さらに「君のために僕は生きていたんだ」というリチャードが、クラリッサの「過去の幸せ」という呪縛を解き放つ。こうしてクラリッサは<今>の自身の幸せと向き合うことができる。百年ちかく続いた不安や不満などの葛藤がようやくクラリッサが最後に手に入れた「答え」によって完結する。

羅列的に三人の葛藤を観ていたのではこの映画は「完結」しないと思う。観終わってそんなことを考えました。同性愛とか人生の意味だとか、ありきたりなわかりやすい感情ではない、もっとボヤっとしたことを描いている映画だと思う。それを言葉に表したいけれど、この映画の完成度の高さ故、それを困難なものにしています。


「ダロウェイ夫人」も映画化されていて、ビデオになってます。

併せて観るのも一興かと思います。