今から綴る一年前の出来事。

当時を振り返って言葉にしておくこと
きっとこれからの自分にとって必要なことだと。。。

正直な気持ち、心の揺れ、気づき
包み隠さず書いてみたいと思った。



夫の仕事の関係で、韓国に引っ越して来たのが2012年の2月。
日本で結婚し、出産し、子育てをして平凡に暮らしていた自分にとって、それは大きな転換期となった。
何もわからない状態で、子ども3人(当時4年生、3年生、3歳)を抱え奮闘する日々。
片言の韓国語が話せる私と、ほぼ分からない状態の子どもたち。
頼りの夫は仕事が忙しく、肝心な時に不在も多々。
学校からの手紙を読むのも、外からの電話に対応するのも、病院で説明するのも、まずは自分。
母は強しということで、どんな波も乗り越えてきた。
とにかく慣れるのに必死で、やれることは何でも挑戦し、体当たりで過ごしていた。
韓国語教室、多文化センター主催の様々なプログラム、週末の母国語授業。お母さんたちとの交流、ボランティア活動への参加。
目が回るような日々にも、根底には、“韓国に慣れる“という強い思いがあり、多少疲れていようが、とにかく気合いで走り続けた。


文化、習慣、言葉が違う中での生活は、想像以上に厳しいもの。
きっと一人でいろいろと抱えていたら、今、こんな風に自分は過ごせていないと思う。
家族はもちろんのこと、友達、周りの人、そして、いろいろな活動を通して出会った人たちに支えられて、自分はここまで来ることができた。
今回は、その中でも印象に残る出来事について書いてみたいと思う。
それは自分自身に起きた出来事で、そのことによってかなり考え方、生き方が変わった。多くの学びがあり、支えられているということを痛感した。


実は、昨年の秋頃から下腹部の痛みが続いていた。
何かおかしいなと違和感を感じながらも、疲れのせいということにして日々を過ごしていた。
しかし、その痛みはずっと続き、とあるきっかけで婦人科を受診。
すると数日後に、高度異形成のためさらに詳しい検査が必要という知らせがきた。
とりあえず動揺を抑えながら大学病院の産婦人科へ行き、子宮頚部の組織検査をした。
帰ってきてインターネットで病状についていろいろと調べてみたら、あまり良くない状態であることがわかった。
読みながらジワジワと涙がこみあげてきた。どこかで冷静な自分と、ショックで他のことが手につかない自分。
ドキドキソワソワ眠れない日々が続いた。

そんな時、前に住むおばちゃんが訪ねてきた。
彼女は私よりも9歳年上で、頼れるお姉さん的存在。
引っ越してきたばかりの頃、いろいろとお世話をしてくれて、韓国の教育事情からおススメのお店まで幅広く教えてくれた。
以来お茶飲み仲間に。(私の身近で、苦労も喜びも戸惑いも共感してくれている大切な存在)

おばちゃんの顔を見た途端、それまで抑えていた感情があふれ出し、思いきり泣いた。
「韓国に来ていろいろと大変だったよね。いつも頑張っていたから。。。ストレスが関係しているのでは?大丈夫。しっかり気持ちを落ち着けて。つらいよね。いっぱい泣いていいよ。」とおばちゃん。
傍にいてもらえるだけでありがたかった。ただただ抱きしめてもらえるだけで、心が落ち着いた。

検査結果が出るまでの一週間が、とても長く感じられた。
とにかくこの現状を受け止め、今まで以上に子宮に思いを向け、温め、無理をせず、ゆっくり過ごした。
自分にとって必要な時間。起きることには意味があると思いながら。。。
と同時に今までがむしゃらに動いてきた自分を振り返った。

勢いとタイミングでの国際結婚。多少の反対があった中での結婚だったため、弱音は吐きたくなく、“頑張る“”我慢“は当たり前のことだった。
そして、何かあっても”つらい“”大変“”助けて“を言うことは自分が負けることだと思い、心の中にしまい込んでいた。
(今思うと、なぜそんなに意地を張っていたのか?ということも多いのであるが。。。)


悶々とする日々の中、おばちゃんが持ってきてくれる花束に癒された。
花を眺めてその香りに包まれていると、一瞬現実を忘れられた。
そして、子どもたちのこともたくさん考えた。もし私が入院することになったら?もしものことがあったら?生きていくために必要なこと、まだまだ教えていない。。。
そう考えて、以前よりもたくさん、洗濯、掃除、片付け、料理を手伝ってもらい、できるだけのことを教えておこうと思った。


そしていよいよ検査結果が出る日。緊張は頂点に達していた。
一緒に行った夫との会話は今でも思い出せない。
ただ、子宮頚部の異常な組織を取り除く「円錐切除術」をすることは確実で、しかも翌日にということで、手術の準備のため血液検査、心電図、レントゲンなどいろいろと検査をした。
あまりにも突然の話に気が動転していたようで、夫が仕事のため途中から一人になった私は、手術の説明も聞かず、検査だけして家に戻ってしまった。

夕方、 翌日手術することを子どもたちに伝えた。心配そうな顔で見つめられて、心がギュッとした。
でも、心配をかけたくなかったので頑張って強がった。
しばらくすると、おばちゃんが仕事帰りに寄ってくれた。素になれるおばちゃんを前にして、また泣いた。
おばちゃんは「大丈夫!うまくいく。」そう言って強く抱きしめてくれた。
次男は一生懸命ティッシュで涙を拭いてくれた。
その晩は眠れなかった。子どもたちの寝顔を見ながら、いろいろと考えが巡り、言葉にならない思いがいっぱいになり胸が苦しくなった。


翌朝玄関で、子どもたちは3人並んでお見送りしてくれた。泣きたいのを我慢している顔で。
今でもその顔は忘れられない。そして「病院で読んでね」と手紙を渡してくれた。
私は、泣きたいのを必死にこらえて空元気で家を後にした。


 病院に着くと、分娩待機室に案内された。
一つひとつカーテンで区切られているものの、複雑な気持ちになった。
命を育み喜びに満ちる瞬間を期待している人と、病気を抱え落ち込む人が同じ空間にいなければならないこと。
これも学びなさいということなのだと割り切り、赤ちゃんの心音がトクトクトクと響いてくるのを聞きながら、子どもたちからの手紙を読んだ。

開いた瞬間嗚咽した。
「ママ、がんばって。ママがどこにいってもママのそばにいるから。」
「ママ、悲しいときは恋しいときはこの絵を見て思い出して。おうえんしているから。」
「ママ、がんばって。ママ、大好き!」
「初めての手術、大変かもしれないし、泣きたいくらい悲しいことがあるかもしれないけど、パパやわたしたちのこと考えて。
みんなママのことおうえんして祈ってるから。。。ママが今までどれだけ大変だったんだろうと考えると、とても気持ちがつらいし悲しいよ。
だからこれからはたくさんお手伝いするね。ママ、がんばって」


自分のことをこんなにも思ってくれる存在。
私が子どもたちを守っていると思っていたら、実は私が守られていたのかもしれない。。。
何ともいえない気持ちになって涙があふれた。

そして、いよいよ手術室へ。
ストレッチャーに横になり移動するわずかな時間、夫が私の顔を覗き込み一言。
「君一人の身体じゃないんだから。。。大事にしてよ。」
その言葉が琴線に触れ、またしても涙が。
手を握って答えることしかできない自分。

そして、韓国語での手術の最終説明と最終確認。
こういう状況の時、普段ならわかる言葉もわからなくなったりで、答えに詰まった。。。(その間ずっと涙が止まらず)

その後まるでドラマのワンシーンのように入室。
手術台に乗ったとき、悲しみと不安と緊張で、心臓のドキドキは最高潮。
ひんやりとした空間に震えが止まらなくなっていた。
それを察してか、担当の先生は日本語で話しかけてくれた。

それからどれくらい経ったのか。
目を覚ますと、温かな包まれるような感覚の中にいた。
これは今まで味わったことのない感覚だった。
そして、無事に手術が終わりホッとした気持ちと、これからどうなるのだろうという気持ちが複雑に入り交りながら半日病院で過ごし、退院した。


家で子どもたちから迎えられた時。さらに愛おしく、尊く思えた。
こうして一緒にいられることが、どれだけ貴重で大事なことか。。。
もちろん、おばちゃんにもすぐメールで報告。
「よかった。すべていい方向に向かっていくよ。気楽に過ごしていくのよ。」と返事をもらい、心のモヤモヤが一区切りついた感じになった。


 しかし、試練は終わっていなかった。
一週間後、手術した時に取った組織の検査結果を聞きに行った。
もう大丈夫だろうという気持ち半分、どんな結果が出るのかドキドキ半分。

夫はどうしても抜けられない仕事があるため、今回は一人で。
診察室に入り、簡単な図が描かれて説明が始まった。
とりあえずできる範囲で切除はしたが、残っている可能性があるとのこと。
もう出産もしているので、子宮摘出を勧めるとのことだった。

予期せぬ言葉に、もう一度その部分だけ切除することは可能なのか聞くだけで精一杯だった。
すると先生は、「3か月後にまた来てください。その時に決めましょう」と言い診察は終わった。
正直、“子宮摘出”という言葉にショックを受けた。
もどかしさと、悲しさと、虚しさが襲った。。。 
気持ちを整理するのにどれくらい時間が経ったのだろう。


それからというもの、何をするにも心ここにあらずの状態で、人に会うのも辛くなり、一人の時間が増えていった。
ボーっとしてみたり、自分を深く深く見つめたり。
心の声に耳を澄ましたり。
頑張ることもやめてみたり。
日向ぼっこもお昼寝もいっぱいした。
悲しいという感情も苦しいという感情も我慢せずたくさん出した。

すると、本当はこうしたかったんだなあという思いがたくさん出てきた。
無理していたことも、子宮に対して無関心だったことも、心の声と頭で考えてやっていることが一致していなかったこともわかった。


以前の自分は、まるでハムスターが回し車でずっと走り続けているような状態だった。
とにかく動いて動いて動いて。
“気合い“と”根性“で進んでいたような。。。
”こうしなければならない“”こうあるべきだ“のような枠の中で、修行のように突き詰めていたような、焦っていたような。。。

韓国に来て、自分自身も言葉の問題を抱えつつ、
母として子どもたちが学校に適応していけるようサポートし、
嫁として伝統文化を受け継ぐ努力をし、
妻として夫を支えなければと必死だった。

いつしか”大変でも大丈夫”が口癖となり、気づけば自分の気持ちは二の次になっていたのかもしれない。

今回の病気は、そんな私が回し車から降りるきっかけを与えてくれた。
今までの全てが腑に落ちた。

頑張ってきたからこそわかったこともいっぱい。
我慢したからこそ経験できたこともいっぱい。
でも、もう一人で頑張らなくても無理しなくてもいいよと教えてくれた出来事だった。

自分を第一に考えて、自分の気持ちに素直になって動いていくことが大切だよと。。。
辛い時は辛いと言うこと、
大変な時は手伝ってと言うこと、
無理な時は断ること、
泣くことも笑うことと同じように大切だということ。
当たり前の日常に幸せがあり、そこに目を向けていくこと。
いろいろなことを学んだ。

そして、いつしか腹を括る自分がいた。
どんなことがあっても大丈夫。そんな気持ちになっていった。


そして迎えた3か月後の検診。
今回は、相変わらず忙しく出張も続く夫の代わりに、韓国で知り合った友達に同行をお願いした。
 当初、子宮の病気ということもあり、あまり公にしていなかったのだが、ある時ふと彼女の顔が浮かんだ。
在韓歴も長く、人生経験も豊富な彼女を前に、今までのことを涙ながらに話した。
すると、心強く答えてくれた。
「できることは何でもするよ!一緒に向かい合っていこう」と。
診断書の翻訳から通訳まで、きめ細やかに助けてくれた。
何度も彼女に力をもらった。


ドキドキの内診台。
診察をしながら「うん。状態よくなってきてますね」と先生。
今後定期的に診察していけば大丈夫でしょうという言葉にホッとし、涙がウルッとこぼれた。
そして、今まで支えてきてくれた家族、友達、おばちゃんに感謝した。

この日は久しぶりに心から嬉しさがこみ上げて、身体がいつまでもポカポカだった。


振り返ると、全てがいい経験。
今回のことも、日本に住み続けていたら経験できなかったことかもしれない。
韓国に来たからこそわかったことも山ほど。
書ききれないほどの感動も。

今までたくさんの人の支えがあったからこそ、今があること。

だから忘れないように、ここにしっかり書いておきたいと思った。

そして、支えられている日々の中で、少しでも自分ができることで誰かを支えられたらと。。。。

“人”という字が支え合っているように、私もたくさんの人と支え合って生きていけたらと。。。

未来に向かってできること、一つひとつ丁寧に心を込めてやっていけたらと。。。



“出会い、経験は最高の宝物“。

いつまでも心に。。。