幾万の御霊を鎮め長崎の鐘は私の八月を問ふ
20年以上前に詠んだ歌を、あえて毎年書く
毎年の鐘はちっぽけな私の平和への覚悟と行動を問うものなのである
海に向かって立つ大浦天主堂
今年の8月9日は土曜日であり、自宅で黙祷
何度か行った長崎の風景が浮かぶ
平和公園、爆心地、浦上・大浦天主堂、如己堂、西浦教会の26聖人像
爆風で片足になった鳥居といくつもの坂
ヒロシマはヒロシマの、ナガサキはナガサキの夏の日だった
テレビの中継で平和公園の鐘が鳴るとき、長崎医科大学の医学博士永井隆とアンジェラスの鐘を思う
原爆の一撃のもと、東洋一を誇る浦上天主堂は無残に崩れたが二つの鐘の一つは発見された
祈りをささげる場を求める被災者の声を聞き、瓦礫となった焼け野原に粗末な柱を立て、いち早く鐘を掲げたのは、自身洗礼名をパウロとするカトリック信者、永井医師だった
「長崎の鐘」(サトウハチロー作詞 小関雄二作曲)
広く知られたこの歌は、永井博士と前述の鐘の経緯が前提となっており、映画にもなっている
(平和公園には、この地の軍需工場で生命を落とした人らを追悼する「長崎の鐘」も追って建立されている)
投下数日後、これが原子爆弾であると知ったとき、原子学の専門家としての博士のショックは殊更大きかったと想像がつく
結核治療に関してエックス線の研究に携わり、当時の貧しい研究環境において、被災前からすでに被ばく者であった永井氏は、原爆により頭部に傷を負うも、看護師の肩を借りながらも学長代理として救護と治療に歩き、自宅に帰ったのは三日後のこと
子供たちは疎開中だが、氏を信仰に導いた妻は焼け落ちた家屋内で亡くなって遺骨と化していた
そして、妻のロザリオが熱で溶けて傍らに落ちていたのだという
オレンジ色の珊瑚のロザリオは、その姿のまま今も原爆平和資料館に展示されている
戦後、病魔に苦しみながら執筆を続ける彼のためにたった二畳の家が建てられた
ある五月に今は資料館となっているその家を訪ねたとき、さわやかな風の中、小さいその家がまるで聖地のように私の心を洗い、静かな感動を得たことを数十年経ても思い出すことができる
今は再建された浦上天主堂近く、坂の途中の「如己堂(にょこどう)」と名付けられたその家に二人の遺児を置いて、白血病のため43歳で世を去った永井博士はアララギの歌人でもあった
「如己堂」の由来は「おのれの如く人を愛せよ」
辞世の句
「光つつ秋空高く消えにけり」
長崎の平和公園の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館には、静かに水が流れている
水を求めて亡くなった市民のため、清らかな「水が流れ続けている
大浦天主堂向かいの神学校門前のマリア様


