青空に明朝体で「びゅ」と書いて五月の風の我を置き去る

 

ずいぶん昔に詠んだ歌

武蔵野国国分寺史跡の 広い広い草原に

今頃の季節 ちょっと時間があると出かけてゆき

木陰に何もない時間を送る そんなときに作った

 

   この歌はしかし盗作である(!)

 

もっともっと昔 上村一夫の漫画で

(「同棲時代」の今日子だったか)

女性が虚無感の目で見上げる空に「びゅ」と書かれていたのだった

吹き出しの中に 毛筆で

そして彼女の後れ毛と 白の多いカットの中に風が描かれる

 

そんな風を感じて作家へのオマージュとして詠んだつもりだったが

盗作は盗作なのである

 

上村一夫は特別な作家だった    私には 

そして たぶん多くの若者にも

そこには 女性の描く少女漫画より 美しい女性がいた

 

最近 彼のアシさんだったという漫画家氏と知り合った

または行きつけの呉服店の店員さんから

上村を好きであったという話が出たりした

(加えて彼女の御両親は私と同じ勤務先であったという)

 

宇野亜喜良の個展が開かれたり

横尾忠則の自伝が朝日新聞に連載されたり

職場の同僚と『ウッドストック』の話をしたり

すこし時代が戻っている

 

そうであっても そのどれも「回顧」ではない

いまだに私の「今」なのだ

 

きょうも 国分寺の跡 ただただ広い草の原

桜の木陰で 同じ風を見てきた

 

 

 

 

   この山門の向こうに 今の国分寺がある

 

 

  

   そして 敷地内には 私の大事な 万葉植物園

「ほととぎす待てど来啼かぬあやめ草 玉に貫く日をいまだ遠みか」

 

高校の古文のお手本のような言い回しなので反訳はしやすい

※ この時代「霍公(郭公)」は「かっこう」と書いてホトトギスをさすので注意

ホトトギスを待っているが来て啼かない。あやめを玉にして通す日がまだ遠いからか?

  「アヤメを玉にして通すの」意味は不明。。

余談だが「かっこう」は「かくこふ」と表記されるため、同音の「かく恋ふ」にかけて

「こんなに恋している(のに)」のように使われるなどしている

 

「暇(いとま)なみ来ざりし君にほととぎす我かく恋ふと行きて告げこそ」

・ひまがないと言って来ない彼に、ホトトギスよ 私はこんなに恋うているのにと告げてきておくれ

 

 

 

 

       この向こうには 将軍の鷹狩りの地という お鷹の道

 

 

夏には蛍も飛ぶ 湧水の流れが続く

(国分寺駅近くの日立電子から「井の頭公園」まで)

 

悲恋の伝説を祀る 真姿の池

 

 

 

たった一時間でも 心の洗濯でしたニャン ラブラブ