すみっこぐらしのクッキー🍪


可愛いよね。


すみっこぐらしのキュラクターの説明を次女に聞いた。


このシロクマくんは寒がりなんだってニヤリ




旦那の話


片田舎で生まれた旦那。私と同じ歳だが、生まれた環境でこうも違うのかなって思ったことが多い。時代のせいもあるだろう。小学校は同級生6人、中学校は同級生12人くらいだったみたい。中学卒業後、全日制の高校に通うにはどんなに頭よくても通える範囲が決まってるので行ける高校は数校。しかもそれは朝1本しか出ていない駅行きのバスに乗れてのこと。それに乗れなかったらもうアウト!今の時代は親が駅まで送っていく人も多いが当時はそんな親いなかった。

それに旦那は7歳の時にお父さんを亡くしていたので5人兄弟みんな定時制で昼間働くか全日制の新聞奨学金制度で高校に行っていた。お兄さんお姉さんと同じように旦那は中学卒業後定時制高校に行き、昼間は製造業ではたらきその寮に入った。

幼い頃、お父さんを早く亡くし、お母さんのパート先について行った旦那はそこの社長さんに可愛がられ『大きくなったら社長になる!』と言っていたと姑にきいたことがある。お兄さんお姉さんたちみんな15歳で家を出て行ったからか物凄く寂しがりやで家族の愛に飢えていたように感じる。

そんな旦那だからか結婚を早くしたがっていた。すぐに子供ができた時も大喜び。4人の娘に恵まれ、子供と一緒に目一杯遊んでくれた。でもいつの日か子供の方がどんどん成長していき、旦那は寂しかったかも。24歳で結婚、25歳で父親になり、26歳でマイホームを持ち、29歳で次女を30歳で三女を授かりその年に独立起業。念願の社長になった。33歳で四女を授かり、35歳で平家の家を2階建に建て直した。会社はリーマンショックや震災の打撃もあったが乗り越えてきた。そして46歳で法人化。

生き急いだ人生だったように感じる。


昭和40年生まれだが、まだ家でお産するような田舎だった。生まれてすぐにお医者さんに診てもらうわけでもないから元気ならよし!みたいな感じ。そんな旦那、小学校の健康診断で校医が??と不思議がり、『もしかしたら心臓反対かも知れないな。一度診療所で診てもらいなさい。』と言われたがとくに診てもらうこともなかったらしい。15歳で就職した時健康診断でひっかかり、会社を通して病院に行くように言われその時初めて右胸心だということを知った。生活には影響ないと言われた。

就職後はそれなりにヤンチャして青春して過ごしてきた旦那、17歳の時に最愛の長兄を亡くし、人生で一番辛い出来事だったと聞いた。19歳の頃私と付き合いが始まり車好きな旦那だったのでデートはもっぱらドライブ。そんな中、5年間の交際中年に1〜2回あったかないかだが、動悸が激しくなることがあった。本人曰く病院で診てもらったが何とも無いと言われたらしい。結婚して1人目を妊娠し出産予定日も過ぎたある日、産婦人科から帰りアパートの部屋に入るとうずくまってる旦那がいた。まだ会社にいる時間。胸が苦しくなり早退したと言う。私は慌てて近くの総合病院に連絡、救急外来で診てもらった。タイミングよくその日は大学病院の循環器科の先生が来ている日だった。私が待合室で待っていると、『いつからなんだ‼️初めてじゃないのか‼️』など切羽詰まった感じで先生が言ってきた。え!おおごと?

その日は集中治療室に入り緊急入院。私は翌日、旦那の入院セットと私の入院セットを持って旦那の病院に向かった。実は私はこの日から出産まで入院することになっていた。旦那の病院に着きナースステーションで聞いたら、『あぁ、今日退院ですよ』と!え!昨日集中治療室だった人が?後にわかったことだが発作が治ると本当に何ともなくなる。検査が必要だが今は治療することはないと。結局旦那退院の足でそのまま私は他の病院に入院。その夜陣痛が始まり翌日第一子出産となった。翌年、旦那は大学病院で詳しく検査。そして色々わかった。完全内臓逆位、そして心臓疾患。心房中隔欠損症、エブスタイン奇形・エプシュタイン病、WPW症候群。

実はこの時は心房中隔欠損とエブスタイン…の2つの病名はわかっていなかった。穴が空いていて弁が曲がっているとしか言われなかったが後にわかった、それも昨年わかった病名である。発作の原因はWPW症候群のためであると診断されカテーテルアブレーションにて手術。右胸心のためか2〜3時間の予定が12時間掛かった。手術中に執刀医が代わるというドラマのようなこともあった。その後発作はまったくなくなり、心臓の穴や弁のことは40歳くらいまでには診てもらうように言われたものの。何の症状もなくまだまだ先の話…なんて思っているうち日々子育てや仕事に追われすっかり忘れてしまっていた。

その後、風邪やインフルエンザ、靭帯断裂などあったが病院で過去の病気など聞かれるほどのことがなく過ごしていた。47歳の年末腰痛を訴える旦那。整骨院、整形外科、鍼治療、内科にもかかったがまったくわからずお正月を迎え3日の朝トイレでバタン!と。立てない…と言う旦那。救急車で搬送。年末診てもらった病院に搬送されたが何ともないと言われたんだよな…と思いながら入院。そして翌日朝、病院から電話。原因がわかったと。この病院では手に負えないので総合病院に救急車で搬送しますとのこと。私は後から自家用車で追いかけた。救急車と違い信号止まりながらなので、着いた時にはもう処置が始まっていた。主治医が出て来て説明が始まった。左腸腰筋膿瘍。字の如く、左の腸腰筋に膿が溜まっている状態。最悪歩けない状態になるかもと。その後原因を調べたら虫歯菌だった。投薬とドレナージ治療。ひたすら膿が出るまで待つみたいな治療だった。1ヶ月入院。1ヶ月自宅療養。歩けなくなるかもと言われたのがすっかり元に戻った。2度目の生還!その時和室に介護用ベッドを設置。そこからしばらく旦那の寝室は和室になった。53歳の夏、仕事上の人間関係にイライラしていた旦那。そのイライラのまま横切り盤で作業。右手指、人差し指中指薬指を切断。命には別状ないものの仕事に大切な指を落とし会社の存続を考える時が来た。ところが短くなった指を使いながら仕事を続けた。3度目の生還!

何があっても助かる人なんだ!と思った。

翌年、末娘が旦那の介護ベッドを持って寮生活が始まった。今考えると介護ベッドを持っていくなんておかしいが笑。そこで久しぶりにベッドをふたつ並べて同じ寝室になった。2020年4月から2人きりの生活になった。あ、猫2匹がいた笑。一時、姑が同居していた時があり7人と犬猫の大家族だった。犬、姑が他界。長女が嫁ぎ、次女三女が独立。そして四女も寮生活が始まった。コロナ禍のせいもあり、2人きりで過ごすことが多くなった。そして翌年2021年11月、胸の違和感を訴え診察。間質性肺炎と診断され在宅酸素療法が始まり闘病生活が始まった。2年4ヶ月寝室を一緒にしたが、酸素供給機器の設置の関係でまた旦那の寝室は和室に戻り、ベッドの横に機械を設置した。間質性肺炎を調べると余命という字がまず出てきた。でも人それぞれ違い、30年以上闘病されている方もいる。旦那はそのタイプだと信じていた。だって苦しがっていないもの。2022年は毎月通院のために旦那とドライブをいっぱいできたかも。2023年コロナ感染からの間質性肺炎増悪。4度目の生還はなかった。

57年という短い一生。夢を叶えたくさんの愛に恵まれ、いろんな病気と闘い、走り抜けてきた人生だと思う。

モラハラと思われるところあり泣いた日々もあったが、不思議だね、幸せだったことしか思い出せない。

あなたに出会えて夫婦になり家族になれたこと、世界で一番幸せでした。ありがとうパパ。