さて、生むことに何とか渋々賛成してくれたものの、つわりは容赦なく私を襲った。まったく食べれなくて1週間が経ち、また入院。7月の下旬ころだった。担当医は研修医で私に「後学のために付き合い方を教えて欲しい」とか「どうやって付き合ったの?」とか言い始めた。そして出される食事は普通食。食べられないから入院しているのにやっていることがおかしい。夜中に看護婦が「何で彼は見舞いに来ないのか」としつこかった。また、妊婦が飲んではいけない薬を私に処方した。私と彼は仕事が落ち着いて、休みが取れた8月16日に籍を入れた。点滴は24時間。睡眠時間はほとんど無い。シャワーを浴びるときも吐き続け、起き上がっても吐き続け、顔を横に向いただけでも吐き続けた。涙があふれ出て仕方なかった。看護婦は点滴の管をきちんとはめなかったせいで、血が床一面に滴り落ちていた。ナースコールを鳴らした。来た看護婦はすみませんの一言もなしだった。私は気づくまでうたた寝をして、三途の川を渡ろうとしていた。目が覚めるとそんな状態だったからびっくりした。周りの人の迷惑になると思い、「個室に移して欲しい」とお願いしたが、「2人部屋ならありますよ」と言われ、そこに移された。そこに移されたのはいいのだが、食べ物の話をされただけでも吐く私は、耐え切れなかった。これが1ヶ月続いたある日、担当医はどんどんやせ細る私に「中絶したほうがいいでしょう」と言った。「私は生みます」と言ったらとんでもない言葉が出た。「結婚して欲しい」と。父はめったに見舞いに来なかったが、来た時に言った。やせ細った私の顔を見て怒りだした。「何だこの病院は。転院させる」と言うと3日以内に転院の手続きが済んだ。危うく私と子供が殺されるところだった。私の体重は妊娠3ヶ月にして40キロだった。12キロも痩せたのである。お腹なんてぺたんこでとても妊娠している体には見えなかった。

転院するために起き上がってびっくり。なんと腰が曲がってしまったのである。それは今でもその位置が痛い。あとで検査したのだが軽いヘルニアになっていた。私は転院するに当たり、6人部屋にいたときお世話になった人に挨拶に行った。「いくら経ってもよくならず、中絶しろと言われたので転院することにしました」と言ったら、「そうだったの~あなたのときだけやたらと研修医がそばにいるから親切な病院だと思っていたら・・・さびしくなるわ」そう言ってくれた。立っているのもやっとな体だったので、すぐその場を去ったが体が痛い。母はそれを知らず、「腰を曲げて歩くな」と言う。車に乗り、私は横たわった。もうティッシュのにおいまでかぎ分けることができるくらいであった。使ったティッシュは25箱である。口にしたものはお茶だけである。

そのまま病院を変わり、体重、身長、血液検査を終えるとベッドに横たわった。

先生は「実はここまでひどいつわりは初めてなんですよ、でも全力を尽くしますから」と言ってくれた。私は自分が生まれた病院であんな目にあうとは思わなかった。ここではどうなんだろう?でもこの言葉を聴いて安心した。「無理して食べなくていいですから」先生はそう言ったが・・・

次の日、いきなり給食が来た。まるで離乳食のようだった。おいしそうなのだが見るだけで吐き気がする。しかし看護婦は「食べないといけないですよ」と言う。一口だけ食べてみる。やはり吐いてしまう。もうこのまま中絶なのか、いや、子供を生まなければならない。昼もチャレンジした。やはりだめだった。夜もだめだった。まったく食べられない私。その日はそのまま寝た。

次の日私はあることを考えた。口の中まできたものを無理やり飲み込もうと言う作戦である。実践した。そうしたらなんと食べられるようになったのである。入院は10日ほどだったが、食事はとてもおいしかった。退院間近には普通食まで食べられるようになっていった。先生は「丁度4ヶ月に入るところで安定してきたのでしょう」と言ったが、私は違うと思う。精神的に安定したのだと思う。一生懸命私のためにメニューを考えてくれたり、弱気になっていた私を励ましてくれたり、何より「出産」という大イベントに向けての不安が取れたのである。こうして私は退院した。


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