やけどの重症度のはかり方は

その損傷が皮膚のどの位置まで来ているかによってきまる、というのは

みなさんご存知でしょう。

だから、熱湯に一瞬触れて、表面だけの損傷よりも

低温なのにじわじわと、真皮の奥にまで到達してしまうやけどの方が

重傷だと判断されることがある。




わたしたちは相手の気持ちをそのまま感じることができない。

だけど私が信じるものの中に

頼ろうとする心っていうのがある。

それこそ宗教とか占いだとか、お守りとかジンクスとかゲンカツギ。

意外だけどそれには理由があって

人間がある種のストレスを受けた時に

そのこころはストレスを受け止めてつぶれてしまわないように

ボールを当てられたクッションをスローモーションの一コマずつみるように変化する。

最初は悲しみ、怒り、通り抜けるまでの過程にとても興味深いのが

取引き、という踊り場に出ることだ。

どうか、この事実は受け止めますから、~でありますように。

という具合だ。

信じるという一部に自分の意識に禁欲的な部分を引き受けることで、~でありますようにと

何かを願うというのは、

ストレスを受け流すための儀式として、割と深いところにあるのだ。

だからわたしは、もしそれがごく自然に、その本人の日常の中で何気なく行われている行動であったとしても

祈りや、願う行為に対して、ある種の誠意をみせようと決めている。




だれだって明日はわからなくって

不安で、生活して行く中になにか儀式を取り入れているのだ。



だれも誰かの気持ちを感じることはできない。

だけど行動は目の前の事実なのだから

わたしはそれを確かなものとして受け入れるつもりだ。




そして今日、それが

「今この目の前に置かれた状況を神様がお与えになったことだとして、

 今現在そのものを信じています」

と言ったあの、神父様の言葉の意味だと分かったのだ。






わたしは宗教として分類される道筋ではなく

臨床的な心理の方法として、そこに至った。




科学も宗教も、どれも同じだ。