はーい、ゆらでーす。


ぽつりぽつりと、産卵する子が出てきた。

それでも、昨日は温かい日だったけど、日中から肌寒い日が続き、採卵しなくちゃ!という日々ではない。

その間に、昨年にログインできずに記録できなかったことを振り返りつつ、少しずつ記録を足していこうと書いていたのだけれど、しばらくはブログは書けない。

またやってくれましてね。

母さんの暴走!


その時期その時期にやらないかんことは多く、殊にわたしは、自分なりに整理した順番で、ひとつひとつとこなしていかないとできない性質で、あれこれと同時進行したら、逆にいつまでも片付かない!

なので、あれをこの日にこの手順で、と、あらかた頭の中で整理してやり始めるのだけれど、それをぶち壊してくれるのが母さんで、いつもわたしを巻き込んで、今!今!今!と、急かしてくるので、自分のことは後回しになっていく。

待つ事ができんので、お断りを入れて自分のことをやりはじめても、とれない棘が刺さったように、結局は落ち着いて自分の事がやれず、母さん優先になってしまう。

それで母さんのことが終わり、やれやれさてと、自分のことをやり始めたら、また新たな何かをぶち込んでくる!


わたしは暇でいるわけではない!

やりくりして時間をつくってやっていて、邪魔されたくない貴重な時間なんです!!!

買い物だろうが掃除だろうが炊飯だろうが趣味だろうが。


お土産のバラ苗を鉢にいれるべく翌日に、そのやりくりの時間で買い物に出た。年齢で外出が自由ではない母さんの分も、母さんには母さんの、使い易い鉢を選んで一緒に準備して。

その日は買い物でいっぱいいっぱいで、翌日に植え付けようとしたら鉢がない!

勝手にわたしの鉢を使ってしまっていた!

その時その時に着実にやっていかないと、後回しにしたら上の理由も入り込んで、果てしなくなってしまうから、前日の外出で疲れてもいたけど、頑張ってようやくに出かけたのに。

なのに植え付けができず。


それも片付かないうちに、また別のことをやってくれて!!!


で、今何をしているかと言えば、柿の葉茶作り。

柿の葉茶は今年も作る予定ではあったものの、今は五月、冬物の片付け、花の手入れ、エアコンの掃除、諸々、気候的に動き易い今だからこそやりたいこともあって、六月には梅仕事、らっきょう漬けで毎日忙しく、やっと落ち着いた七月頃から作り始めるのがいい。

なのに、突然に大量に枝を切り落としてしまって。落としてしまってから言う。

葉っぱはどうする、茶にするか、と。


庭の柿の木は、母さんが自分の高血圧を気にして植えたもの。

母さんは、自分の母さん、つまりはわたしのばあちゃんが死んだのは、高血圧が原因だったと信じ込んでいて、自分もその質だからと。

わたしから見ると、本当は高血圧であるのかは関係なく、母さんは高血圧でなくてはならないと、自分で決めつける気持ちが大き過ぎる。それが故に母さんの高血圧は、一生治るはずがない。

高血圧の真実よりも、医者に行って薬もらって、自分は医者にかかり薬をのんで、やることはやっているのだから、という、医者に判断を丸投げした依存と安心感が欲しいのだから。


わたしが中学生の頃にはまだザクロが植わっていたので、恐らくは高校生の頃に柿を植えたのだろう。

その柿の木は、行商で来た農家さんから買ったと聞いて驚いて。

たしかに小さい頃はまだ、周りは藪や空き地や池が沢山あったけど、それでも住宅地としての開発地域だったから、高校生の頃にはもう藪も池もなくなって、既に都会の住宅地の様相をしていたのに。

今の生活からすると、まだのどかにも思える一面があったんだなぁ。


で、その、うちの柿の木の実は、それは甘くて美味しくて。

親戚やご近所さんや母さんの知り合いや、貰っていった柿好きな人は、またお土産を持って、柿を貰いに来るほどに。


それが近年は実が成らなくて、母さんが急に、わたしが始末しないと誰も世話はやかないだろうと言い出した。

ちょっ待った!

今までは母さんの遊び場での出来事、そう思っていたから。

切ってしまったら、柿が食べられなくなってしまう。

もっと広い土地があって、わたしに体力があったなら、実のなる木をたくさん植えて、畑をやれたらいいのにと思うのに、貴重な柿を切るなんて。

わたしの体力の限りだとしても、もう少しできないかと、それでわたしが冬に剪定して、一昨年去年と豊作で、うちの食を支えるものとしてあってくれた。


一昨年は、柿のせん定が初めてだったから、恐る恐るでもあったし、母さんの使っていた高枝切鋏が中途半端な壊れ方をしていたから、遠慮がちな剪定になってしまったけれど、高枝切鋏と枝切りのこぎりを新たに買い、昨年は、体調の良い日、隣近所から流れてくる洗剤その他のニオイとともに汚染された空気でない時、細かく揺さぶってくるストレスのかかる雑音のない時、そんな時間を見計らって、慣れない高い所の作業を頑張って、また次が楽しみとしていたのに。


母さんは言ってくる。

もっと枝の根元からざっくり全部を切ったって、枝は生えて来るんだから。

あそこが邪魔、ここが邪魔と。


自分でやらないとわからないから、任せて。

そう言っても、また春が来て枝が伸び始めると、上が電線に引っかかる、右は物置に、左は車に、あっちは通行人に、こっちは洗濯物に、下は歩いて通るに邪魔だから切れと言ってくる。

それ、もう枝を伸ばすとこないからね!

なのに甘い実を沢山食べたいなんて、自然の摂理にそぐわないワガママが過ぎる。

だから実がならなくなっただけで、柿の木には、まだまだ成長とわたしたちを存分に満たしてくれる力はあるのに!

もう実もならないからって、だから切るって。


柿の木の生命は本来、柿の木そのもののものなのに、所有者という概念から言えば、母さんの意見に間違いは無くなるのだけれど、ただただ自分本位のところからいってくる様に、柿の木と自分がダブって見えてくる。


わたしはかあさんの所有物ではないけれど、わたしがまだ物心がつく前から、あなたはわたしがいないと生きていられないのだから、あなたはわたしの棺桶に一緒に入るのだからって、ずっと言ってて。

わたしは母さんが思っていたような出来損ないのバカではなかったから、ずっと苦しみ悩まされ続けた。


で、この間もあの枝がこの枝がと言ってきたけど、無視していたら、先日の朝、枝を切ったから柿の葉茶にするかって聞いてきた。

わたしは「また勝手に!お茶を作るのにも時間はどうするの!することは沢山あるのにこっちの都合も考えず!」って憤慨したけど、聞く人ではない。

「だったら、捨てればいいじゃない。」


もう放っておきたくなる。

わたしの選んだ鋏は気に入らないはずで、自分で選んで買った、馴染みのある壊れかけの鋏で切ったに違いなく、腰が膝が、痛い痛い、だから、あれもこれもできないからと言ってくるのに、あれだけの量の枝を、ものの小一時間くらいで切り落としたんだから、都合のよい年寄だ。


とはいえ、やっぱり面倒見きれなくなっているから切ると言い出したに違いなく、やっぱり放り出すわけにもいかない。

食料としても諦めきれない。


大量に出た柿の葉は、切っても切っても追いつかず、切って干したところで、場所もなく詰め込んだカゴの中では乾きも悪く、その間にも葉っぱは傷んでいき、こうして手間暇かけているのに、痛んで質の悪くなったことを知ったうえでの作業で、質の良い茶ができる筈もなく、やり甲斐もたのしみも中途半端で、作業を軽くしてくれる思いどころか、芋づるにあれもこれも腹が立って立って立って、愚痴が止まらない。


ちんまりとなった木を見ても腹が立ち、頑張って剪定したのに、花芽は随分と落とされて、今年の秋は寂しくて、またその頃に思い出されて腹が立つのだろうと、先の明るさが見えず、ウンざりしてくる。


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↑ザルにいっぱい。
写真で見るとそうでもない様に見えるかもだけど、ちょっと触ると跳ね戻ってきそうなくらいぎゅうぎゅうで、3キロは超えていると思う。
これがふたつ。

干して葉脈をきり、刻んで蒸して、また干して。
狭い台所で、わたしひとりの作業。
商売でもないから、小さい干し籠もひとつ。
何もかも全て無茶。

少しずつできる範囲で作り足していけばいいものを。
もっとも、母さんは柿の葉茶のことを思って枝を切ったわけでもなく、また、これによって、わたしが作っている柿の葉茶があり難いと思う気持ちがないことがわかる。

捨てるのは簡単かもしれないけど、柿の木への感謝がなさ過ぎて、何もかも諦らめて、母さんの側にはいたくない。
無茶を通しているのは結局はわたしなんだけど。

悪くなったものを愚痴りながら作るよりも、おもいきって捨てた方が、その方がかえって敬意をはらうことになるのか。

大事にしているのは柿の木なのか、ともに元気でいて欲しい母さんと家族の食のためなのか、自分の意地というエゴなのか、わからなくなる。

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↑柿の葉茶の作り方を参考にしているサイト。


作り方、他にもあるのかじっくりとは調べてないけど、今はこれで重宝している。


柿の葉茶だろうがドクダミ茶だろうがミントティーだろうが麦茶だろうが紅茶だろうが緑茶だろうが、作り方の色々はあれど、飲み慣れないと始めは落ち着かない気もちもあるけれど、慣れたら食後には絶対に緑茶ということはなくなった。


食後の緑茶をやめたのは、身体に入る農薬をなるだけ少なくするために。

それを意識し始めてから、無農薬茶やドクダミ茶なんかを買っていたけど、今は庭で採れたものをお茶にしている。

効能なんかを期待するなら、ちゃんと煎じるのがいいと思うけど、手間の都合と、温かい温度で飲みたくて、急須に入れてお湯を注いで飲んでいる。

細かく突きつめれば、使っている水やポットにも問題あるし、今できる範囲で無理なく変えられることをしている。


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日付は変わってしまったけれど、きょうは一日中土砂降りの雨で、柿の葉茶の作業もできず、植物の世話もできず、滞ったブログが気になって、頭でぐるぐると愚痴を書き綴る毎日が続いて止まないから、午前中はできる範囲でめだかの水換えをして、午後から割り切って座り込んで書いた。


愚痴を綴る時間があるなら、めだかの記録を書けばいいものを、けれど、柿の葉茶のことも書いておきたくて、この愚痴を置いて後に書こうとしても、やはり思い出すだろうし、お茶も美味しくできるかわからず、やっぱり一因として書いてしまうだろうし、何より、今大きいこのストレスを、吐き出さないと進まない。

めだかの記録、後手後手に回って、後でまたそれがストレスになりそうだけど。

こんな調子で、また直ぐに投げ出すことになるかもしれないけど。


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書き綴って時間押して、昼ご飯は手間をかけずに直ぐにできるものを。

ネコマンマに梅干しのせて、そして味噌汁。

火を通さなくていい豆腐とわかめを鍋に入れて、出汁の出るものがないから粉のいりこも入れて、ポットの熱湯を注いで沸かす時間を短くして。


晩御飯は、作り置きと、足りない分は、もやしと、これも作り置きの焼いたササミをほぐしていれて、塩コショウで炒めたものを。


バラ苗は、いつ鉢に入れられるかな。

早春から後手に回したネメシアも。


自転車もだ。

結局はバッテリーが効かなくなって、新しく換えてまだ乗り続けられるか、自転車屋さんに見せにいかなくちゃ。


あれもこれもだ。


また明日。

愚痴は止まらないけど、作業ができるしあわせ。

ご飯が食べられるしあわせ。

花が咲く庭のある家にいられるしあわせ。

母さんが元気でいてくれるしあわせ。

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