蒼冠塾



人材城  十六



山本伸一(やまもとしんいち)は、本部長の坂上良江(さかうえよしえ)から、三角(みすみ)のメンバーの話を聞くと、彼女に言った。

「三角の同志(どうし)と私は、お会いできなくとも、心は一緒(いっしょ)です。私は、三角のことを忘れません。私の一念(いちねん)に、深く刻(きざ)まれています。また、皆さんの心には、私がいます。

私と一緒に、広宣流布(こうせんるふ)への決意を新(あら)たにし、頑張ろうとしてくれている。それは、日々、私と、心で対話していることです。

私と戸田(とだ)先生もそうです。毎日、常(つね)に、心で戸田先生と対話しながら戦っています。私の心には、いつも、先生がいらっしゃる。

私の基準(きじゅん)は、御書(ごしょ)であり、それを実際(じっさい)に身で読まれ、実践(じっせん)されてきた戸田先生です。

“こういう時、先生ならどうされるか”“自分の今日(きょう)の行動は、先生のご精神(せいしん)にかなったものであるのか”“先生が今の自分を見たら、喜(よろこ)ばれるか、悲(かな)しまれるか”


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そして、“必ず、先生にお喜びいただける勝利(しょうり)の戦いをしよう”と、自分を鼓舞(こぶ)してきたんです。それが、私の勇気(ゆうき)の源泉(げせん)です。常勝(じょうしょう)の原動力(げんどうりょく)なんです」

師弟不二(していふに)とは、師の心をわが心として生きることであり、いつ、いかなる時も、己心(こしん)に厳(げん)として師匠(ししょう)がいることから始まる。いくら“師弟の道”を叫んでいても、自分の心に師匠がいなければ、もはや、仏法(ぶっぽう)ではない。

師匠を、“自分の心の外(そと)にいる存在(そんざい)”ととらえれば、師の振(ふ)る舞(ま)いも、指導(しどう)も、自身の内面的(ないめんてき)な規範(きはん)とはならない。そして、師匠が自分をどう見ているかという、師の“目”や“評価(ひょうか)”が行動の基準(きじゅん)となってしまう。

そうなると、“師匠が厳(きび)しく言うから頑張るが、折(おり)あらば手を抜こう”という要領主義(ようりょうしゅぎ)に堕(だ)していくことになりかねない。そこには、自己(じこ)の信心(しんじん)の深化(しんか)もなければ、人間革命(にんげんかくめい)もない。

もしも、幹部(かんぶ)がそうなってしまえば、仏法の精神は消え失せ、清浄(せいじょう)なる信仰の世界も、利害(りがい)や打算(ださん)の世法(せほう)の世界になってしまう。

己心に、師弟不二の大道(だいどう)を確立(かくりつ)するなかにこそ、令法久住(りょうぼうくじゅう)がある。


=2012年4月27日・聖教新聞=