「汝の敵を愛する」ことの意味 | 1級フードアナリスト ユピロ菌の迷える子羊達へ

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悩んでいたときに救ってくれた言葉や料理をおすそ分け。仏教に自分で掛けた首輪は自分でしか外せないという言葉がある。悩みを解決してくれるのは宗教でも他人でもない。自分自身でしか解決できない。


今日は渡辺和子シスター著

幻冬舎「面倒だから、しよう」から

「汝の敵を愛する」ことの意味

という章を紹介します。




私は、九歳の時から親の仇を持った人間です。

三十数名の陸軍の青年将校と兵士が朝の六時前、

トラックで家に乗りつけてきました。

父が機転を利かせて、私を座卓の陰に

間一髪で隠してくれたのですけれども、

将校たちは軽機関銃を据えつけて、

私の目の前一メートルの所で

父を惨殺して帰りました。

血の海の中で、父は死にました。

その寝室には、父と私しかいませんでした。

かくして私は”父の最後を看取った、

たつた一人の人間”になりました。

その父を殺した人たちを「憎んでいますか?」

とよく聞かれました。

そのたびに私は、「いいえ、あの方たちにはあの方たちの

大義名分がおありになったと思いますので、お恨みして

おりません」といっていました。

ところが、私が修道院にはいって二十年も経った頃でしょうか、

あるテレビ局から、二月二十六日のあたりで

「どうしてもテレビに出て欲しい」と頼まれました。

父が死んだのは六十二歳でしたが、一諸に殺された

斎藤實内大臣とか高橋是清大蔵大臣はもう七十代の

方たちで、お子様は一諸にいらっつしゃいませんでした。

私は殺された側の唯一の生き証人だからということで、

テレビ局へまいりました。

するとなんと、私には何の断りもなく父を殺した側の兵卒が一人、

同じくテレビに出演するために呼ばれていたのです。

私は本当にびっくりしました。

殺した側と殺された側とで話もなく、

テレビ局の方が気を利かせてコーヒーを運ばせてくださって、

私は「これは幸い」と思ってコーヒー茶碗を口元まで持ってまいりました。

ところが、どうしてもそのコーヒーを、一滴も飲めなかったのです。

本当に不思議でした。

何でもないコーヒー、それも時間的にも朝の十時半ごろの

モーニングコーヒーです。

その時私はつくづく「自分は、本当は心から許していないのかもしれない」

ということと、同時に「やっぱり私の中には父の血が流れている」

ということを感じ、「敵を愛する」ということのむずかしさを味わいました。





頭では許しても、体がいうことを聞かないということがあります。

今、私がもし聖書の中の「汝の敵を愛せよ」ということを実行するとすれば

せめて相手の不幸を願わないことです。

今、相手の人は生きていらっしゃるかどうかはわかりませんが、

「老後をお幸せにお過ごしになりますように」と祈ることが

私にとって精一杯の、「汝の敵を愛せよ」とおっしゃったイエスさまの

みことばを守ることだと思います。

人間は弱いものです。

口ではきれいなことをいってもなかなか体がついていかないこともあります。

それを体験できたということは、恵みだったと思います。

「シスター、許したいのですけど許せないのです」といわれると

「そうですか、私にもそういう思いがあるのですよ」ということが

いえるようになりました。

言葉でいえても体がついていかないことがあると知り、

そんな自分を許すのです。

頭で許しても、体がついていかないことがある

せめて、相手の不幸を願わないことを

心に留めて生きたい




僕は、この「頭で許しても

体がついていかないことがある」という言葉を読んで

今一つ、心に響きませんでした。

しかしながら、

頭で許しても

 心がついていかないことがある


と、体と心を入れ替えてやると

妙に心の中にスッと入ってくるものがあります。

僕は、どんな人間関係にあっても

僕に関わる人のすべてが

幸せになって欲しい。

相手の不幸を願わないことではなくて

幸せになってくれることを願っています。