私が15、6年前に読んだ本『プリンセス・スータナ』

スータナは実在の人物
王家で裕福な家庭に生まれたサウジの王女です
しかし、王家であっても女性の地位は非常に低いため、人権を無視した行為が行われる日々
スータナは、それらの真実をアメリカ人の女性ジャーナリストに命がけで告白
それを著者がまとめ執筆したものだった

確か、帯かあらすじ的な部分を読んでこの本を買った記憶がある
15年前なら中学生の時か・・・・


プリンセススータナ―ロイヤル・ファミリーの隠された真実 (「ノーと言える女性たち」シリーズ)/ジーン サッソン



原書の画像しかでないや


$yupi life~30歳からの大学進学~



イスラムの女性の婚姻までの真実が書いてあったのをおぼえている
中学生の私にはかなりのインパクトだったから・・・・

女性は好きでもない相手と結婚が勝手に決められ
結婚式で初めて相手の顔を見る
「こんな奴と結婚なんてしたくない!」と思っても抵抗の余地はない

結婚初夜までに体中の毛を抜かれる
もちろんエステなどでなく親族の女性たちが蜂蜜と布で除毛する

一番強烈だったのはクリトリスの切除
男性の割礼と違い女性の場合は命に関わるそうだ
何のために?とそのときはわからなかった。

結婚後は抱かれたくも無い新郎と夜をともにしなければならない
そのときには切除したあとの傷がこすれ
身が裂けるような痛みを感じながらことをなす
男は自分勝手な快楽におぼれる

これが王家の結婚だった


中学生の私はショッキングでこれ以上知りたくないと思う反面
なぜこのようなことが放置されてるのかと疑問だらけだった

どこかで生きているスータナを思い、胸が痛かった


昨日から、マザーに借りた
花崎皋平の『個人/個人を超えるもの』(岩波書店)を読み始めた

いつの間にか忘れてしまった、遠い国の王女スータナが
目の前に現れた。15年の時を越えて・・・・。

第一章『多分か主義』の中に書かれた
「ジェンダーとセクシュアリティをめぐって」の節から
ずっとスータナを思い出しながら読んだ


アフリカの多くの文化において
男性の割礼と女性性器の切除は社会制度を支える支柱である
それにより、性差を強化しているのだそうだ
割礼や切除以前の段階では人は「両性具有」であるとされる


以前偽善者の記事を書く前にある人と議論をして行き詰ったことがある。

イスラム法では
女性は通姦すると石で死ぬまで打たれる「石打刑」というものがある
それをめぐって議論になった
私は無論「断固NG」
しかし、彼は「石打ちがイスラム宗教や文化の一部であるなら、それに先進国の「人権保障」という価値基準でNGというのは押し付けではないか?こちらが「万人の平等」を説いて、人権保障を押し付けるということは、あちらが石打ち刑を先進国でも取り入れることを押し付ける事にもなるのではないか?」という話だった

私は、イスラムの宗教法典を読んだことは無いが、女性にDVを働くことや暴力や生命を奪うことが
宗教で保障されるわけがないと思っていたし
ピースアドでイスラム教圏の人が製作した「女性へのDV廃止を訴えるポスター」を見て話を聞いた経験から
絶対NGにきまってんじゃん!!!と自信があった

そのポスター↓

$yupi life~30歳からの大学進学~


・・・・が彼は納得しないようだった。
そのことが気持ち悪くてのどに突っかかってる感じで
ひと月ほど過ごしていた


花崎皋平・・・まじでGJだ!
彼がしていた批判とはよくあるものだった

女性性器の切除や、石打刑のような「尊厳」に関わ問題に関して
「尊厳は西欧的人権においての意味での平等や、人間の身体を傷つけられない権利といったものを欠いても存立しうるかもしれない。」という意見がある。
これは、「自分たちが知らない事実、出来合いを押し付けることのできない事実、他者の態度から情報を期待しなければならない事実に対しては、見解を留保しなければならない。」というものである。


これに対して花崎は
「文化を支えている自然的社会的諸条件とその構造化・制度化・観念化の形態をできる限り内在的に知る作業を行うことが望ましいが、そのような知的作業を経なければ、女性性器の一部を切り取るという行為に対して是非の判断を控えるべきだということにはならない。」と答える


思いっきり、うなずいたw

このような事例について文化相対主義に譲歩することは・・・
私もできなーい!!!\(*`∧´)/断固反対

しかし、このクリトリス切除はアフリカ社会では
血縁。地縁関係での相互扶助や福祉保障に大きく関わる問題で
「保障を受けないor切除」このどちらかを女性は選ばなくてはならなく
こういった制約的な状況を
」理解しないと「野蛮な風習」とか「人権無視」とだけ批判し
その文化を劣ったものと決め付けることになる


「これらの否認が西欧文化や社会を是とし、多文化や社会を非として終わるのではない視野を持つ必要がある。」
花崎の著書の対話部分に出てくる望月氏(アメリカ先住民女性文学研究者)が
「私たちに言わせれば、ちがう話!女の話ですのに。」というこの「ちがう話」と「文化的差異として認め合うべき話」を区別することは必須である。

それなのに「文化だから・・・。」と違和感なしにいえてしまうこの現状がやばい
イスラム法がやばいんじゃなく、アフリカ文化がやばいんじゃない
何とも思わないことがやばい。いつもいってるけど。

どうして気持ち悪くないんだろ・・・。はぁ。


花崎氏は「他者」を視座に入れた「人間」の見直しが必要だという
「私は改めて多文化主義を論ずるうえで、女性と先住民の視座ーつまり近代文明にとっての「他者」の視座が、必要不可欠であることを確認する。その「他者」を欠いた「普遍主義」はまやかしであるといいたい。」


いいたい。いいたい。
声を大にして言いたーーーーーーい!!!
ヾ(。`Д´。)ノ

そんなわけで、私の話に「西洋の価値判断の押し付けだ」と非難した彼は
近代文明にとっての「他者」」の視座が大いに大いに大ーーーーーーいに(゙ `-´)/
欠けているというわけです。

出直して来い((o(-゛-;)


やっと枕高くして眠れる(笑い)♪


『プリンセス・スータナ」は絶版になっていました
でもアマゾンでまだ注文できます。
家にあったのもどこかへいってしまったので、アマゾンしました。
中学生のときに読んだあの本の答えが、15年後の今出ました。
しかし問題は15年後とどうかわっているでしょうか?かわっていないのでしょうか?
また、スータナとの日々が再開するようです