ゆんたくシーサーRadioのゆかりんです。
スミソニアンにある展示物から、
航空宇宙史、軍事史をご紹介します。
1942年、10月3日ドイツで打ち上げられた人口飛翔体は、宇宙空間に到達し、🌌
完全な軌道を描きながら、192㎞先に落下しました。
これが第2次大戦中、ドイツが世界初の軍事用液体燃料ミサイル、弾道ミサイルとなったV2ロケットです。
【米に移管されてきたV-2の機体を、1975~6年に復元してスミソニアンに展示している】
移動式のランチ台を使用し、機動性の高い小部隊でどこへでも移動し、
発射可能にしたのです。
特に、森林のある道路上で打ち上げられ
一度として、連合軍に捕捉されることなく発射されました。
ロンドン空襲の際は、1358発のV2ロケットがロンドンの街を焦がし
大英帝国を危機に陥れました。
V-2ロケットは、超音速で前触れもなく飛来し、
どこに着弾するかもわからず、
迎撃することも不可能だったので、
多くのロンドン市民を恐怖に慄いたと言います。
それを開発したのが
ドイツ人科学者フォン・ブラウンです。
【ヴェルナー・フォン・ブラウン Wikiより】
第2次大戦が終了すると、
米軍がフォン・ブラウンを始めとする126名の主要な設計技術者を、
貨車300両に渡るV2ロケットの部品と共に、アメリカに連れ去りました。
旧ソ連もまた、V2ロケットと
250人あまりの技術者を連れ去ったのです。
旧ソ連側は、セルゲイ・コロリョフ指導の下、
V2ロケットをコピーしたR-1を製作、
R-2、R-3、R-5Mを経て、R-7へと発展し、
世界初の人工衛星スプートニクとして昇華させ、
世界にスプートニクショックを与えることになりました。
また、フランス、イギリスもそれぞれV2ロケットの部品や資料を持ち去り、
戦後のロケット開発を進めました。
1960年NASAは、アラバマ州ハンツヴィルドにマーシャル宇宙センターを新設し、
フォン・ブラウンが初代所長を務めました。
マーシャル宇宙センターの大きな初仕事は
1960年に就任したケネディー大統領の指揮下で
アポロ計画であり、
宇宙飛行士を月に送るサターンロケットの開発でした。🚀
第2次大戦後、こうして、米ソの冷戦下で
熾烈な宇宙開発競争が始まるのですが、
ナチス時代のフォン・ブラウンが開発したV2ロケットエンジンが、
その技術者らと共に、
米ソ双方のロケットエンジンの技術的土台となっていったのです。
つまり、生みの親は、ドイツ人フォン・ブラウンだったということになります。
フォン・ブラウンは、ドイツのナチス政権下で開発に従事したということで、
それを非難する人が少なからずいました。
でも彼は、ナチス政権下において、
地球を回る軌道に乗せるロケットや、
月に向かうロケットを建造することについて
語ることをやめなかったので、
SS(ナチ親衛隊)やゲシュタポに一時期逮捕されていました。
彼の罪状は、「より大型のロケット爆弾作成に集中すべき時に、
個人的な願望を語りすぎる」というもの。
しかし、彼がいなければV-2は完成しないとし、
結局、ヒトラー自身がゲシュタポをとりなし
解放させた、と言われます。
彼の中に、葛藤があったことは確かでしょう。
アメリカ移住後の1952年、ロケットが平和的な探検に使用される世界を夢見て
宇宙ステーションの概念を、コリアーズ(collier’s)誌に発表しています。
母親が、幼少の彼に望遠鏡を与え、🔭
夜空を眺めては、広大な宇宙と、
天文学への関心を幼い内に膨らませていったのです。
ヘルマン・オーベルトの論文
「惑星間宇宙へのロケット」を読んで、
苦手な物理学と数学の勉強に打ち込み、
得意科目までに押し上げた努力家でした。
「時代を動かすこと」を旨とし、
人生をロケット研究に捧げてきたのです。
彼は、世界の科学技術を押し上げ、
地球人類による月着陸、宇宙への航跡を刻みました。
このように、大きな貢献をしてきたことで
1975年、アメリカ国家科学賞を受賞しました。
時代の奔流というものは
いつの時代にもあるにしろ、
彼の純粋な科学者の精神を汚したくない、と思うのは私だけでしょうか?
柿本人麻呂の歌で、前編を締めくくりたいと思います。
天の海に
雲の波立ち🌌
月の船🌛
星の林に
漕ぎ隠る見ゆ