街の記憶 | 思いの坩堝

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モノカキになると誓った元単身赴任会社員の文章修行場です!

昨晩、南万騎が原を歩いていて名古屋の千種を思い出した。

夜間ということもあり、こぢんまりとした商店街は閑散として人気がなく、ただカラオケスナックの電光掲示板がまばゆい光を放っていたのと、小さなスナックから微かに演歌が聞こえてきたくらいしか目立った印象はなかったので、千種を想起させるきっかけが何か、我ながらわからなかった。

しかし、自宅までの帰り道で考えるともなく頭を巡らすうち、2年半暮らした部屋を引き払って横浜に帰るとき、きっともう思い出すことはないだろう、と思っていたにも関わらず、多分にノスタルジックな印象と共に同僚とやはり同様の時間に千種を歩いていた記憶がよみがえったのは、仕事を終えた解放感と、馴染みのない街を歩いていることからくるいいようのない寂しさが当時の状況と似通っていたからだろうと思うに至った。

時間は全てを美化するというが、しかし…。



「撞着」の意味を勘違いしていたことに気がついた。
本来の意味は
「前後が食い違ってつじつまがあわないこと。」
であった。
自説にこだわり、固着することかと思っていた。