「ぼくのびた~」
大山のぶ代風に言ったところで、それはドラえもんの声だらかありえん、と突っ込まれました。
なんのことやらわからなくなったところで( °д°)本編へ。
***
いつの頃からか、あるべき自分と、内面的な自分の乖離が著しくなった。
本音と建前とかいうことではない。
繊細で感受性が豊かなほうだと思っていた自分の感覚機能が、明らかに衰えている気がする。
慣れなのか、それが世界を知るということなのかわからない。
ただ、ちょっと調べた限りではわからなかったんだけど、昔何かで読んだか聞いたかした、どっかの哲学者が言ったことを実感している。
いわく、
あなたが生きていくこの世界では、あなたが思っているほどの悲劇は起こらないし、同様にあなたが期待しているほどいいことも起こらない
要するに、空想は現実に勝る、ということだ。
私は、そんなことは絶対にない!と思っていた。
しかし。
すぐに思い出せることがある。
妻の出産に立ち会った際のことだ。
私はきっと、それまでの情報から、生命の神秘に触れ自然に涙があふれる、のだろうと思った。
しかし、実際は、ひどくあっけなく味気ない思いがした。
震えるほどの感動もなく、当然のことと受け止めた。
涙はこぼれなかった。
表面上はしかし、感動する夫の振りをしていたような気がする。
もちろん嬉しかったし、ほっとはしたが、崇高な感動などは無縁だった。
決して順調とは言えず、途中我が子は、あるいは危険な目にあっていたというのに。
感動するとは聞いていたが、このくらいのことか、と正直思った。
そのことで、自分はなんて薄情なんだろうと自責の念にさいなまれたりもした。
想像力が欠如しているのではないかとも思った。
そして、昨晩、仕事の上で、初めて人の死に触れた。
それまでの知識から、ひとめ見た途端、もしくはその臭いが鼻をさした途端、嘔吐するものだろうと思っていた。
その覚悟の上で、現場に臨んだ。
しかし、思いのほか淡々と受け入れている自分がいた。
なにもかも終わった後、元気に夜食も摂っていた。
嘔吐するのが死体に対する礼儀なのだろうと思っていたわけではない。
しかし、自然に体が反応するものなのだろうと思った。
やはり、なんだこれだけのことか、という思いが不謹慎ながら心のどこかにあったのだろうと思う。
どうしたことなのだろうこれは。
単に歳をとって、分別がついただけなのだろうか。
それとも、感覚機能が単純に衰えているのだろうか。
はたまた、情報がありすぎて、自己の初めての経験すら既に、いつの頃か耳目にした情報量を超えられないということだろうか。
現実味は薄れるばかりだ。
もちろん、世の中は悲劇に満ちている。
それがたとえこれまで自分の目の前で起こらなかったからといって、今後もずっとそうだとはいえない。現実ってツマラナイ、などとひとりごちている人間の下には、大きな試練が訪れるのかもしれない。
幼い時分、世の中の理に慣れていくことはつまり汚れていくことだ、と感じた頃もあった。
いまは、法に触れない限りのある程度のことは、世の中を渡っていく上で必要なのだ、という開き直りのような気分がどこかにある。
その一方で、明らかに人の手による小説やドラマや映画、音楽や絵画やイラストなんかで感動して涙を流すことがある。
日常に耐性を育てながら、純粋さを失わないようにする。
難しいが、今の自分の課題のひとつだ。

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