恐怖の形 | 思いの坩堝

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モノカキになると誓った元単身赴任会社員の文章修行場です!

「恐怖」 とはなんだろう。




唐突な問いのように思われるかもしれないが、


超-1
という、実話怪談を語りあうイベントを知り、


その傍流のイベントに参加したことで、


思いもよらず随分と永いこと、


わたしの頭の中を占め続ける問いとなってしまった。




結論は出ている。




「未知のこと」 だ。


言い換えれば、


マイナス方向にベクトルの向いた


先が読めない、予測がつかない、


わからない、知らない状況を指す。




ただ漠然と、あるいは明確に、




自分の生命や身体や財産や地位や名誉や、


家族や友人や恋人や、


信頼や友情や、


将来や可能性や、


その他もろもろの大切なものが、




突然なぜか、理由も根拠も、わからないまま、理不尽に、


または、理由や根拠はわかっても避けようがない状況で、


壊されたり、害される蓋然性が高まったりして、




対処する術もわからず、


避けることも叶わず、




結果としてどうなってしまうのかすらも、


わからないか、


あるいは目をそむけたくなるような、


考えることすら拒絶したくなるほど酷いこととなるような,




そんな兆候や雰囲気やあるいは結果。




そんなようなことなのだろうと思う。




根源的なところまで遡れば、


生と死が常に隣り合わせであった原始の時代に、


生き残るために発達したアンテナのような感覚だ、


などとは、よく聞く話だ。




そうであるならばそれは、前提として、


人として「守るべきもの」「犯すべからざるもの」 という共通認識があって初めて、


共感し合えるものなのではないか。




今日のように、価値観が多様化し、


自分の生命ですら大切にしない人間が年々増え続け、


メディアの良心によりこれまで大衆の目に触れることのなかった


「人の死」さえも、ネットの進化により日常的に垂れ流されるようになって、




そのうえ、専門家たちがこぞって、それぞれの分野の専門知識をおしげもなく、


素人にもわかりやすく解説するようになり、


人生における未知の部分は革新的に減っているように感じられる今、




誰もが共感できるような 「 『恐怖』 の形」 というのは果たして、ありうるのだろうか。




これからの社会がどうなってしまうのか、


考えることがわたしにとって今一番の 「恐怖」 だ。