自分を「生かせる場所」と言うのは、自分から見ていて「なかなか見えにく」場所なのかもしれない。

 

毎日の「施術」、来院・遠隔での「患者さん対応」、自らの「技術研鑽」、そこから派生した後進の方々への錬成会などでの「技術指導」・・・・、またそこから派生した「ブログ」や「コメント」での「卒後教育」。

 

自分の「得意」だと思える部分ではない部分でも・・・と言うよりは、そういう「得意ではない」部分でより多くの「私の居場所」が出来てしまっている事に、今更ながら驚いてしまう。

「人はみんなそういうものなのだろうか?私だけがこういう無理を強いられる?

いや・・・やはりみんなが不得意だと自覚する世界に追い込まれて生きている?」

最近、こんな事を時折考える自分は、やっぱり少し閉塞しているのかもしれない。

 

こういう「得意でない」と自覚できる世界が「自分の居場所」だと分かり始めてから、自分自身の「体調」が最悪に崩れているのかもしれない。

でも、じゃあ「お前はどこで生きるのだ!」と詰問されれば、答に窮する「私」である。

つまり、私も例にもれず・・・「ワガママ」なのだと思う。

 

この状況は「逃げる」べき状況ではなく、心から「感謝すべき」状況であるはずなのだ。

そういう「状況」は辛いことだが、そういう「世界」に追い込まれたからこそ「見える世界」もある。

 

「施術家としての私」としては、この状況はかなりのメリットを持っていると思われる。

つまり、もし「こういう立場」に自分が追い込まれなければ、決してしないだろうと言うような「発想」や「気づき」が必然として起こって来る事についてである。

 

院での平穏な(?)施術だけでは決して「見えない」世界が、施術家のプロの先生たちを相手に「錬成会」をするという「プレッシャー」の為に、色々と見えてくる。

 

「見えてくる」と言うのとは、もしかしたら少し違うかもしれない。自分が気づかずに「見過ごしている」世界が「見えてくる」・・・が、正解だと思う。

 

簡単に言えば、「人に話すために、言葉に置き換える作業」が切りだしてくる「世界」である。

 

自分が自分一人の為に使う「技術」に筋道だった理論はいらない。その運用は多くが「感覚の世界」であるからだ。

 

簡単に分かりやすく話せば・・・

錬成会を始める前にも「臨床の入口・入口Ⅱ」の技術は日常の施術で当たり前のように使っていた訳だが・・・「瞬骨(瞬間骨盤調整法)」や「仙椎ストレス消去法」や「定触法」や「臓器アプローチ」や「仙椎全方位スライド調整法」や「三層調整」なんて「名前」はなかったわけだ。

 

錬成会開始前は、それらの技術にもちろん「名前」なんかなくて、私自身「アレ」「ソレ」「コレ」の世界だったわけである。

自分一人しか使っていない技術に「名前をつける」ヤツは・・・かなり、「おめでたいヤツ」だろうし・・・さすがの私もそこまでは「おめでたく」はない、と言う事だ。

 

で、全ては錬成会開催決定「後」の話である。

技術が「名前」をもらったのも、「浮島理論」「施術場」のような「情報場の理論」を思いついたのも・・・。

全部、全部「あとづけ」である。

 

「情報場の理論」ですら、私の施術で最初にそこが「目的」であった訳ではない。

「錬成会をしなければならない」、と言う現実の前で・・・・「自分がしている事」を整理していて、つまり、テキストを作りながら「切り出して行った」理論である。

 

こういう整理作業が自分に向けて出来る事。それがたとえ半強制的だとしても「錬成会の恩恵」である、と思っている。

 

で、私は間違いなく「私を伸ばす」努力をみなさんと同じく必死になってしている。

最近では「情報場」の発展としての「世界観の問題」「信仰の問題」「自意識の問題」が施術に与える決定的な要因となりうる・・・と言う可能性を探り始め、施術に導入している。

 

「施術とは何か?」

これはみなさんにいつもやかましく話す事だが・・・私自身がその「問いかけ」と四六時中、格闘している。

 

そしてこれが、「休憩場所」でのコメントで少し盛り上がった「いつもどんな時にでも施術家でいなさい。」の意味のもうひとつの側面である。

 

 

 

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