久しぶりに「臨応研」のブログを解放して、コメントをもらった。
いきなりだったもので、「果たして、コメントを入れてくれる『誰か』がいるのかな?」という感じはあったが、結構「気持ち」の入った「いい質問」を受ける事が出来た。
これから月末3日間は、この「催し(?)」を続けていきたい、と思っている。
ブログはどうしても「流される」運命にある「薄く軽い知識」である。
しかし、その「連続」の中で「何かを得よう。」とするならば、「意味のある体系」が理解できるかもしれない。
そこで問題になるのが「思い込み」の問題である。
人に限った事ではなくて、私なんかもとてもよくやるのだが・・・「ひとつ」聞いて、「全部」分かった気になってしまう。
まぁ、その背景には「己に対する意味のないおごり」があるのだと思う。
そうなると「そこから」なかなか前には進みづらくなる。こちらが伝えたい「真意」が伝わらなくなる。
大切な事は「分からない事」まで、その時点で「分かろう。」としない事。
まずは、「分かるところまで」。その上でその「同じ質問」を繰り返して、時をズラしながら何度も聞く事だ。
「今の自分」にピンとこない事でも、「3ヶ月の経験を積んだ自分」ならピンと来るかもしれないし、「一年後の自分」なら、もっとボンっ!とくるかもしれない。
物事には気づくべき「タイミング」がある。
それが常識と言われているモノから、離れていればいるほどそういう「タイミング」を図る事はとても大切な事だと思われる。
間違いなく私の「錬成会」などはその典型のようなものである。
理解を急げば「化け物みたいな」・・・真意からズレた「気づき」をしかねない。
近くにいる熱心な人にはよく言う事だが・・・
『あなたは私からひとつ聞いて、全部を知ろうとしている。
で、それでもその「歩みの遅さ」に不満を持つ。
私はそうはしなかったですよ。十を知って三として、百を知って二とし、千を知って一としてきました。
広げるんじゃなくて、圧縮するんです。
そういう知識のブロックで、私は私の「体系」を積み上げようとしてるんです。
でも、あなたは「その逆」を・・・知らず知らずに求めています。でも、そこに出来上がる構造物は・・・脆弱で、崩れやすいものかもしれません。』
コレを私の傲慢と取るか、金言とするかは、聞いている人の感性に任せなければならないのだと思う。
が、言ってる私は本心からの「気づかい」で話している。
今までは「「伝わらない」と半ばあきらめて・・・うわべ(?)の「錬成会のテキストの文字ヅラ」に逃げた。
今は、「伝わらない」かもしれない、と覚悟を決めながらも錬成会などでは必死に「伝えよう」としている。
「果たして、どれだけの人が理解してくれるのだろうか?」と、いう事はこの際全然関係のない問題である。