2023年1月5日に61歳で亡くなった主人の記録です。
主人を知る人に読んでいただく為と、
私自身もいずれ記憶が薄れてしまうので、
ここに記します。
2022年9月1日、9カ月程待った新車(ヤリスクロス)納車。愛車ハリアーとお別れ。
9月4日、ゴルフ
9月10日、ゴルフ
9月11日、比叡山延暦寺、ガーデンミュージアム比叡、近江神宮へ夫婦二人でドライブ。
9月17日~20日、木曽方面へ、主人はゴルフ、私と私の母はその間別行動で高山へ旅行。
その時に一日、お酒を少しだけしか飲まずに調子が悪い日がありましたが、「自己免疫の勝利や」とすぐに回復していました。
9月23日、シニアサッカー
9月25日、ゴルフ
10月8日、ゴルフ
10月9日、シニアサッカーで奈良へ。
10月13日、会社関係の方と飲み会。
10月15日、毎日ジュニアサッカースクールコーチの方と飲み会。
(この辺、飲む量は減っていたのでしょうか?)
10月28日、高槻のクリニック受診。
会社の健康診断で指摘された高血圧についての相談で受診しました。
この時にお腹の調子が悪いと言っていましたが、先生には高血圧のことしか話さなかったと。いっぺんに色々言うてもと。
投薬はなしで食事指導を受けました。
(長年服用していた降圧剤に疑問を持つようになっていたので、そういうクリニックを探して受診したのです。)
10月30日、ゴルフ
10月31日~、私が休肝日を作るように言っても「酒やめるぐらいなら、はよ死んだ方がまし」とずっと言うことをきかなかったのに、休肝日を週に2日作るようになりました。
11月5日、ゴルフ
11月6日、シニアサッカーで淡路島へ。私も同行し、私は一人で観光。
11月19日、ゴルフ
11月20日、シニアサッカーの後、近所の梅花大学のクリスマスイブニングイベントに一緒に行き外食(私の母と3人で)。
11月22日、ゴルフ
11月26日、高槻のクリニック再受診、お腹の調子が悪いと相談。漢方薬を処方してもらう。
11月27日、ゴルフ
12月3日、ゴルフ
12月7日、 お腹が張ってきたと高槻のクリニック再受診。血液検査。
12月10日、血液検査の結果がかなり悪いと電話があり、私も一緒にクリニックへ。
癌の可能性が高いので検査した方がいいと高槻病院へ紹介状を書いて貰う。
12月16日、高槻病院受診。
私はツアー添乗員の仕事で同行できず。
高槻駅から病院まで徒歩10分の距離を途中で休み休みしながら歩いたとのこと。
12月19日~、高槻病院検査入院。
検査は日帰りでもできると言われたが、本人が通うのがしんどいので検査入院を希望。
5日で退院するつもりで、車で送って行きました。
12月20日、腹水2リットルを3時間かけて抜き少し楽になったとライン。
元々7~8リットル溜まってそうとのこと。
家族ラインは「瓦田家親父の応援ページ」と主人がグループ名を変更していました。
12月23日、「家族の人も一緒に説明を聞いてください」と言われ、高槻病院へ。
この時、主人は車椅子で声も出にくく、話をすると息が切れる感じでしんどそうでした。
進行S状結腸癌(StageⅣ)、肝臓、腹膜、リンパ節にも転移していて、抗がん剤で治療しないと3カ月、治療しても1年と宣告されました。
腹水も溜まっていて、とても一旦退院できる状態ではなくそのまま入院。
感染予防対策の為、面会禁止、この時から亡くなる一日前まで会えませんでした。
クリニックで勧められた「がんが自然に治る生き方」という本を電子書籍ではなく紙で読みたいと言うのでAmazonで購入して12月27日に病院に到着しましたが、読む元気がないと開封もされていませんでした。
私も同じような本や癌が治る食事の本等、主人が退院してから闘病生活を送ることを考えて図書館で13冊も予約しましたが、正月休みで図書館が開いたのが1月5日、後日読まずにそのまま返却しました。
12月27日、抗がん剤点滴の為のCVポート設置手術
「さっき先生が来て、抗がん剤でお腹ましになると思います、とか言いながらリスクの話に。抗がん剤投与で最悪心臓止まる→心臓マッサージで大量出血。呼吸が止まる→挿管されると抜けなくなる。いわゆる植物状態。どうされますかってさ(-_-)そうなったら植物は勘弁してくれと答えるつもり^^こうなったらそれが俺の人生やからな^^」
これが主人からの最後の長文ラインでした。
12月29日、「ちょっとしばらくしんどいから、反応しずらい、ごめん」とライン。
「何とかつらいけどがんばってるよ。今は48時間のをやってる。この後は役(約の変換ミス)2週間後。やて」
12月30日、「また限界やから途中でみずぬくかも、あいあく(相変わらず?)つらいわ」
「水抜いたら抗がん剤の効果すれる(薄れるのタイプミス)から抜かない方が良いって、頑張れるだけ頑張るわ」
病院の担当医から電話があり、腹水を抜く針を刺すと感染のリスクもあると説明を受けました。
食事がほとんど取れていないので栄養面からも抜かない方がいいと。
しんどいのは抗がん剤のせいではなく、癌が進行しているのと腹水で圧迫されているせいと。
抗がん剤が効くまでに1~2週間はかかると。
面会禁止をなんとかして欲しいと電話で抗議。
意識がなくなる程重体にならないと面会できないと言われ、
「意識がなくなってから会っても意味ないじゃないですか。ルールは分かりますが、患者や家族の身になって考えてください。」「風邪レベルの感染症にいつまでこんな対策するんですか。」
病院が悪いのではなく、いつまでもコロナを2類にしている政府が悪いと分かっています。
会いたくても会えない人達が他にもいっぱいいることも知っていました。
でも黙っていられなかった。。
12月31日、「としあけ早々に5000程度持って来てくれん。水がまずいから、買ったりTVも余裕があつたらしてるねん」
この5000が水のことなのか現金のことなのかテレビカードのことなのかわからなくて、何度かやり取り、短い返事と最初の文のコピー。
結局現金が欲しかったようです。
水は看護師さんに買って貰っていたようでした。
元旦に封筒に入れて持って行った現金や、それより少し前に持って行った着替えはそのまま残っていました。
2023年1月1日、現金わかった?の問いに「はい」とだけ返信
1月2日、「今度来る時ゆるゆるの靴下何枚かお願いします」
「あとるるるゆ(ゆるゆるの)のスウェットあれば」
1月3日、夜中の3:35 家族ラインに「もうあまらん」
これを最初に読んで、着替えが足りないのかと思ったら
私へのラインには同時刻に「もうたまらん」と。
これが最後のラインでした。
朝すぐに病院へ靴下とスエットを持って行きました。
看護師さんに様子を聞くと、足がかなりむくんでいて、かき傷から浸出液が出て包帯を巻いていると。
本人了承のもとスエットの膝から下をハサミで切りましたと。
1月4日、昨日からラインの既読が付かないので心配で朝一番に病院に電話を掛けて様子を聞くと、今日から個室に移るので面会できますと。
必要な物を聞くと折り返し電話をしますと。
電話を待っていても掛かってこず、こちらから掛けても呼び出し音はなるものの繋がらず、しびれを切らして昼前に病院に行きました。
久しぶりに主人と会えました。
車椅子に座っていました。
「話したいことはいっぱいあるんやけどな・・・」とかすれた声で言いました。
「調子良くなってから聞くから」と私はこたえました。
お腹は臨月の妊婦ほど膨れていて、足からは給水シートを巻いていても床に滴る程に浸出液が出ていました。
「足が冷たいねん」と主人。
看護師さんを呼んでシートを代えて貰いました。
(ベッドにいる時は電気毛布の小さいのを掛けてもらっているようでした。)
夜も部屋で付き添って泊まれるということで、私は数日泊まるつもりで「何も持ってきてないから家に取りに帰ってまた来るね」と主人に言うと、
「泊まらんでいいよ」と言いました。
「なんで?一人で寂しいやん。家に帰っても心配で寝られへんから一緒やし」と。
子供達にも面会できるようになったと連絡。
「もうあかんかな?」と主人が言ったので、「そんなん言わんと頑張り」と私は言いました。
その時は、しんどさはまだましに見える時でした。
夕方先生が回診にいらして、血液検査の結果がどんどん悪くなっているから会わせたい人がいるなら急いだ方がいいと。
長男は翌々日の朝(面会時間内)に来ると言ってますと伝えると、もっと急いだ方がいいと。
夜遅くでも特別に面会できると聞き、長男はその日の夜9時頃に仕事が終わってから来ました。
腹水でお腹が膨れているので、横になることはできず、ベッドの背もたれを起こして座ることも嫌がってずっと車椅子がいいと言い張っていたのですが、車椅子だとうとうとすると頭が後ろにカクンとなって寝れないし、足の浸出液がどんどん出るし、ベッドに移った方がいいと先生もおっしゃっていました。
何度か説得して、看護師さん2人がかりでベッドに移してもらい、長男が来た時にはベッドに座っていました。
「ゴルフ教えて貰わなあかんし、死なへんって言うてたやんか~」とか
「人間いつかは死ぬんや(笑)」と長男が冗談混じりに言うと「死ぬ死ぬ言うな」と主人。
長男と私も久しぶりに会ったので、長男の仕事で表彰された話など聞いて、主人にもその写真を見せたり。
少し沈黙があると「しゃべってくれてていいよ」と主人。
10時の消灯前に「また明日の夜も来るから」と長男は帰りました。
長女は東京から翌日の昼頃来たのですが、間に合いませんでした。
ずっと座っているのでお尻が痛いと、座布団を入れたり、「腰掛けたいねん」とベッドから車椅子に移りたがりました。
ベッドに座っている方が、足から浸出液が出るのが少ないし後ろにもたれられるからと説得しました。
おしっこはその日に管を入れて貰っていたのですが、何時頃だったか、大便がしたい気がすると。
看護師さんを呼ぶと「動くとしんどいから、オムツでしてくれても後から綺麗に拭くし、トイレに行ってしたいなら移動を手伝うから」と。
主人は「ちょっと考えさして」と一旦看護師さんには戻ってもらいました。
「かなりしんどいけど頑張ってトイレに行ってみよか」と。
2人がかりで部屋のトイレに移動させて貰いましたが、結局出なかったようです。
その後、動いたせいかお腹の痛みが激しくなり、1時間おきに飲んでいた痛み止めの麻薬(ナルサス)を待ちわびる状態が5時間程続きました。
ぎゅっと強い力で手を握るので、「リラックス、リラックス」とお腹をさすったり(力むと余計に痛みが増すと看護師さんから言われていたので)、見ている私も辛かったです。
薬を飲んでも痛みは一向に治まらず、朝、先生が薬を考えますと。
スエットのゴムがお腹の下にかなり食い込んできて苦しそうだったので、レンタルのゆるいパジャマに看護師さん2人と私も手伝って最初に上を着替えさせてもらった時に、主人がタオルで口を拭うと茶色い血のようなものが付き、「唇からですよね?」と私が看護師さんに聞くと、中からも戻しそうねと受ける袋を慌てて持ってきてくださいましたが、戻しはしなかったです。(数日前から食事は取れずに水と薬ばかり飲んでいたそうです。)
その後主人がまた別のタオルで口を拭い、タオルが汚れたから交換するねと看護師さんが戻ろうとした時に急変?
詰所から「瓦田さんのが鳴ってる」とモニターを持って別の看護師さんが。
先生もすぐに入って来られて(元々いらしたのかも・・・記憶が曖昧です)。
私は「聞こえる?明日香(長女)がもうすぐ来るから頑張って!」と何度か呼び掛けましたが、その時にはもう心臓は止まっていたのかもしれません。
何か機械を持って来てはりましたが、あっという間で使わずでした。
1月5日の9時過ぎでした。
先生が子供さんが来られてから死亡確認をしましょうか?と。
長男が来た後、10時半の死亡確認になりました。
長女が来る昼まで待つと硬直が始まるからと。
死亡確認の後、お腹の水を抜いて貰うのにかなり時間がかかりました。
10リットル以上溜まっているようでした。
「こんなに早く亡くなるなら、苦しい時に抜いてもらったら良かったです」と私が言うと、
「その時はまだ2回目の抗がん剤治療も考えていた時でしたから」と先生はおっしゃっていました。
長男がお寺や葬儀社に連絡してくれて、最短で通夜が5日後でした。
その分、自宅で長く過ごせ、葬儀の準備もゆっくりできました。
子供達が主人の好きだった曲をCDに入れて通夜や葬儀の時に流してもらいました。
1月8日、「湯灌(ゆかん)の儀」で体を簡易浴槽内できれいに洗ってゴルフの時によく着ていた服に着替えさせてもらいました。(マッサージで硬直が取れるそうです。)
主人はお風呂が好きで、近くの万博お湯場によく行っていました。
自宅でも朝と夜、一日2回お風呂に入ることが多かったです。
最後にお風呂に入れて貰えて良かったです。
1月10日、お通夜
1月11日、お葬式
「なぜもっと早くにわからなかったの?今までの検診で異常はなかったの?」という質問も複数の方からいただきました。
今更ですが過去の健診結果を見返すと、2013年に便潜血陽性、消化器科先生宛の封の開けていない紹介状まで出てきました。
2014年は陰性、2015年に再び陽性、2016年と2017年は陰性、2018年と2019年は陽性で精密検査受診を要請されていました。
コロナの影響か、会社の健康診断が変わったせいか、その後の検診結果は手元にありません。
私が精密検査へ病院へ行くように言っても、仕事が忙しく自覚症状がなかったせいか行きませんでした。
「結果が悪いのに病院へ行かないなら検診する意味ないやん」と私はよく言っていました。
2019年4月から東京へ単身赴任したので尚更です。
また、γ-GTPの値も常に悪かったですが、亡くなる2カ月前まで、休肝日も作らずお酒を減らしませんでした。
病院嫌いという訳ではなく、高血圧の薬を貰うために月に1度は病院に行っていた期間も長かったですし、整体に通っていた時期もありました。
ここからは思い出話です。
数年は東京で一人暮らしをする覚悟を決めていたようですが、単身赴任は1年だけでした。
2020年4月から大阪に戻り、テレワークになりました。
仕事用のパソコンを購入し、主人は2階で仕事、私は1階のリビングや庭で過ごし、時々仕事に出かけていました。
主人はよくお茶やコーヒーを飲むのでお茶を入れに降りてきたり、昼休みには庭でゴルフボールを転がしていました。
近所の方から「ご主人リタイヤされたの?」と聞かれました(笑)
退職後にご主人が家にいて奥さんがストレスという話はよく聞きますが、うちは老後もこんな感じで平和に暮らせるかなと思っていました。
朝ご飯と昼ご飯はセルフで、お昼は主人が時々、庭仕事をしている私の分も作ってくれました。
天津飯、とろろ蕎麦、焼き飯、親子丼と作ってくれるメニューは決まっていましたが。
(私が小麦を避けているので、パスタは主人が一人で作って一人で食べていました。)
晩御飯は私が作りますが、いつも「おいしかった!ご馳走さま。ありがとう!」と言ってくれる人でした。
「死ぬまでに後何食食べられるかわからんで。一食一食大事に食べな。」とも言っていました。
私は「1年でも千食以上やで~」と笑っていました。
「人間死んだ後はどうなんねやろ?生まれ変わるんやろか?どう思う?」というような事もよく言っていました。
私は「そんなん今考えても、死んでみんとわからんわー」と言っていました。
もっと早くに病気に気付いていれば、もう少し長生きできたのかもしれません。
でも直前まで何も知らずに元気に好きなように生きて、あっという間に亡くなってしまうのも、ある意味幸せだったのかもしれません。そう思いたいです。
スポーツが好きな人でしたから、動けない闘病生活が続いていたらきっと辛かったでしょう。
主人に感謝しています。
そして、主人を支えてくださった皆様にも感謝しております。
本当にありがとうございました。
2023年1月18日
(今日は私と長女の誕生日です。長女は24歳に、私は56歳になりました。)
妻より